Henry Cow ライヴDVDレヴュー Vevey 1976
奇妙奇天烈でユーモラスかつマジなプログレッシヴ・ロックバンドHenry Cow。
ライヴDVDを観た。前にも観たことがあった1976年の野外ライヴ。
以下のボックスにも収録。
音源だけでは分からない魅力(特にインプロヴィゼイション部分)が満載。
メンバー
Vo. ダグマー・クラウゼ
Dr. クリス・カトラー
G. フレッド・フリス(ヴァイオリンとピアノも)
B. ジョージー・ボーン
サックスとシンセサイザー ティム・ホディキンスン
バスーン等管楽器 リンゼイ・クーパー
変な個性が一丸とならずに共在している。
1. Beautiful as the moon terrible as an army with banners
カメラはダグマー・クラウゼとカトラー中心
カトラーのドラム演奏姿が堪能できる。見ていてドラムセットの上で子供が行進していくようなイメージが浮かんだ。左腕がクルクルしつづけていてとにかく過剰。陶酔しきっているわけではなくて、途中一瞬次どうするか迷うシーンが映ったように思う。
ダグマーは調子は上々、特に変なことはせずに歌う。人民服風の紺色服。歌の入りの合図がかっこいい。ジョージー・ボーンが演奏に集中する姿も映る。
2. Vevey1 インプロ部分
やはり映像があると誰が何をやって、どの音になっているかわかって面白い。ティム・ホジキンスンがサックスふきつつ電子オルガンを弾くキテレツ感が素敵。電子オルガンがキテレツの城。リンゼイ・クーパーは吹くものを入れ替えながら加わってノーメロディーになったあとにサックスとベースが入ってくるところで歓声があがり、徐々に曲へ戻る。この入りのところのフレッド・フリスのピアノがめちゃめちゃかっこいい。弾く姿勢はモグラスタイル(グレン・グールド風)。ギターのときと違って小人みたいに見えます。
3. Terrible as the moon...
曲に戻って、再びカトラーの行進スタイル。かっこいい。
4. Tim Speaks
フランス語 内容はわからないが、アメリカとシャンソンの話。観客からも笑などは起きず。最後ティムがつまってきて苦笑して次の曲へ。
5, No More Songs
ブレヒト歌曲風小品。
カメラ・カット
6, Lithotb ティム・ホジキンソンの曲。曲展開がたくさんある。誰がどうやって展開していくのが映像でわかってライブで見る方が面白い。
ティムのオルガンが空と雲のペイントで可愛い。途中カメラに向かってスマイル。シャイだtたり、演奏者に徹するメンバーも多い中で、ティム・ホジキンスンはそんなにシャイじゃない(フリスがシャイ、カトラーはマジめかつ猛進、ダグマーは素(?)、リンゼイ・クーパーはよくわからない、ジョージー・ボーンは役割に徹している感じ)。
最後の歌に戻ってくるところがやはり感動的。カトラーがロック・ドラマー。
最後の締めがちょっと物足りない。
カメラ・カット
7. Vevey2 インプロ
ダグマーも加わる。ささやきと歌とヴォイス・パーカッション、叫びのミックス。とても色っぽい。ドアの後ろで誰かが何か性的なことをしているのを聞くようなドキドキ感がある。たまに上唇をなめる。
フレッド・フリスはツイン・ネックギター。中盤のスペイシーでもサイケでもない浮遊感。セッションの熱狂もないし、独特の感じ。やったことないけど、プラネタリウムで葉っぱをキメるときに聞きたい。恒星が他の星に依存しないのに、その配置が意味をもつみたいな良さでしょうか。恒星であれば、性別はとりあえず関係ないですが、社会的要素も入れると、メンバー半数がじょちなみにこのライブは野外です。聴衆はリラックスしてみてます。何をしててもいい感じでしょう。ぼーっとしているとRuinsの途中部分(March)が始まります。
8. March
インプロからの流れ。歌つき。楽しいジョージー・ボーンがちょっとうっとりしています。
9. Erk Gah
ティム曲。
カトラーとフリスの鉄筋が同期する映像が面白いです。
ティム・ホジキンソンとリンゼイ・クーパーの動きもたまに同期してて面白い。ティムは相変わらずキテレツ。
多様なメンバーのそれぞれの個性が光るライヴ。ヘンリー・カウが好きな人も、あんまり知らない人もこれを観ると絶対に好きになる!!! ・・・ということでオススメです。
『屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ』(ファティ・アキン監督作品)。(『ジョーカー』に不満のある人はぜひ観てください by 花沢健吾)
久々に映画館に行った。観たのはドイツ映画『フリッツ・ホンカ 屋根裏の殺人鬼』。客は数える程で4人・・・。「楽しい」とは言い難いが、ひたすら観入ってしまう110分だった。映画館を出た後もモヤモヤして色々考えさせられる。観客に間違いなく思考を促す作品であり、その意味で間違いなくいい映画である。
作品情報
『屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ』
2019年ドイツ映画 原題 „Der Goldene Handschuh“
ファティ・アキン監督
ヨナス・ダスラー、マルガレーテ・ティーゼル、カーチャ・シュトゥット他出演
110分
日本公開2020年
1 映画の紹介(ネタバレなし)
フリッツ・ホンカとは・・・
フリッツ・ホンカはドイツの犯罪者。映画を観るまで知らなかったが、その筋(猟奇殺人、シリアルキラー)では有名な人物らしい。1970年代に複数の殺人を行った。交通事故で鼻を砕き、後遺症が残った。
実話に基づく
本作は、数年前に出版されたホンカについての小説にインスパイアされて撮られている。小説は読んでいないので比較はできないが、監督のアキンの発言では小説は殺人者への同情を呼ぶ点が特徴的とのこと。映画は、同情よりドライな理解を引き起こすものになっている。
ホンカの犯行についてはすでに知られている。それゆえ、映画は「誰が犯人か」「誰が殺されるのか」といったことについては、犯行記録に忠実なものになっている。
映画が力を入れているのは、「誰が」「何が」ではなく、「どうして」犯行に至ったのか、「どのように」殺人がなされたのか、という過程の描写である。 ホンカが何故激昂し、何故殺すのかといったことが理解できるようになっている。観客はホンカの行動を理解するが、同情はしないだろう。
ホンカの部屋については警察の証拠写真に忠実に再現されている模様。
特殊メイクで演じられたホンカ 演じるのは23歳 ヨナス・ダスラー
犯行時のホンカは30代半ばを超えていたが、ホンカを演じるのは23歳のヨナス・ダスラー。注目の若手で爽やかなイケメン。見終えるまで20代が演じているとは全く思わなかった。特殊メイクはうまくいってます。
ファティ・アキン監督作品
監督ファティ・アキンはトルコ系ドイツ人で、2000年代からドイツ映画を牽引し続けている。
デビュー当初しばらくは、多文化間の葛藤や越境をモティーフとする作品が多かった。2000年代の代表作は『愛より強く』『そして私たちは愛に帰る』『ソウル・キッチン』。
近年は、第一次大戦時のトルコによるアルメニア人虐殺をモティーフとした『消えた声がその名を呼ぶ』や、ドイツのネオ・ナチによるテロへの批判意識に満ちた復讐劇『女は2度決断する』など、歴史、政治とリンクした映画が増えていた。
前作の『女は2度決断する』では右翼テロの被害者家族が主人公であり、彼女の復讐劇になっていた。本作は、反対に加害者であるフリッツ・ホンカを執拗に追う展開の映画になっている。作品ごとに作風を変え、新境地を切り開いてきたアキンは、本作でも新たな境地に達している。
本作のテイスト
社会派といえば社会派だが、メッセージの表明場面は少ない。
2 考察(ネタばれあり)
「不能者」の殺人
ハンニバル・レクターをはじめとする華麗なる猟奇殺人者は、殺害の場面で最強感、全能感を画面に露わにする。実際にあんな殺人はほとんどないだろうなとこの映画を見てつくづく思う。
アル中、ブサイク、インポ、コミュ障、部屋が臭い・・・そんな男が本作の主人公フリッツ・ホンカである。ホンカの殺人は計画性も芸術性も皆無。殺人のきっかけは怒りである。しかも「勃たなかったこと」を嘲られたことへの怒りを始め、不能感、劣等感に満ちている。
レクター的殺人には「ヤバイ=怖い=スゴイ」という刺激があって息を飲んでしまうが、ホンカは「ヤバイ=近寄りたくない=マジか・・・」となって、一瞬飲んだ息が深い長い溜息に変わってしまう。
原タイトル『黄金の手袋』
本作の原題は„der goldene Handschuh“=the golden glove=「黄金の手袋」である。「黄金の手袋」とは何かというと、主人公にして殺人鬼のホンカの行きつけの酒場の名前である。被害者は皆、ホンカとこの酒場で出会う。本作の表の主人公はやはりホンカであるが、「黄金の手袋」というタイトルが示唆するように、そこで酒を飲んで酒に飲まれている彼女たちの存在が映画の本体とも言える。
ホンカと同様、被害者達もほとんどアル中である。彼女らは、若い女に酒を奢ろうとして鼻で嘲笑われたホンカが、最後に行き着く女である。ホンカ事件のまとめ記事などでは彼女らは「娼婦」とされているが、飾り窓を彩る着飾った娼婦ではなく、酒飲みたさに見るからに危ないホンカについて行ってしまう中年女性達である。
一杯の酒につられてホンカの屋根裏に入り込み、その後一時彼と同棲することになるゲルダは、ホンカと出会う前からすでに人生に期待を失っている。もはや「自分を大事にする」ということをしなくなった悲しい目をした中年女性は、ホンカの狂った発言(「お前の娘を連れてこい」)や契約書(「ホンカ氏の言うことをなんでも受け入れる」といった主旨)の異常さにもあまり反応を示さなくなっている。
ゲルダを演じるのは、オーストリアの女優マルガレーテ・ティーゼル。オーストリアのウルリヒ・ザイドル監督の『パラダイス 愛』での主演が有名。本作では、誰にも顧みられず、理想も希望もなく生きている人間の虚ろな目の演技がすごい。
映画本編でも触れられていたと思うが、ホンカの被害者4人のうち3人に関しては殺された後で捜索すらされなかった。顧みられず、行き場もなく、酒を飲む他ない被害者達の姿を克明に映し出すことに映画は力を入れている。
「黄金の手袋」とは無縁な「普通の若者」
普通のスプラッター映画であれば、被害者はキャンプやドライヴで浮かれている若い男女であり、恐怖のクライマックスを若い女性の叫び声が彩る。本作の主人公ホンカの被害者は全員50代であり、その意味で彼の殺人にはスプラッター映画となるための「フック」が欠けている。アキンはそこを上手く処理していて、スプラッター風の色気を作り出すために、高校生男女を1組用意している。宣伝写真にも写っている少女のことをホンカはホットドッグスタンドで偶然見かけ、その白い肌に妄想を膨らませている。
この高校生の少女が肉感的でコマーシャル映像でもよく出てくるのだが、彼女の存在は本作を商業映画としてギリギリ成り立たせるためのギミックである。映画においてホンカと彼女は結局ほとんど接点がないままに終わる。実際のホンカもこうした少女との接触はなかったと思われる(ホンカはフェラチオの際に噛まれるかもしれないという恐怖心を抱いており、入れ歯の女性を好んだという)。
映画では、彼女と、彼女の友人になる少年(ファティ・アキンの前々作『50年後の僕たちは』で主演の・・・が演じる)だけが、普通のスプラッター映画の被害者となりそうな人物である。だが、彼らは結局のところホンカとは無縁の普通の人々である。
ホンカが巣食う「黄金の手袋」は若者とは無縁な酒場で、常連は、ホンカやアル中の中年女性たちの他、元ナチス親衛隊の巨漢や、ホンカをおだてて酒を奢らせているうだつの上がらない中年男たちである。高校生二人は、こんなところに本来来ることはないのだが、少年の方が好奇心で「黄金の手袋」に遊びに来てしまう。
戸惑いもありつつ少年は若いが故に、ここが自分が来るべき場ではないことを十分に認識しない。トイレでたまたま連れションとなった元親衛隊(SS)にフレンドリーに話しかけた彼は、小便しながら話しかける無礼に怒った元SSに背中から小便を浴びせかけられる(このシーンは映画のクライマックスの一つである)。
ショックで個室に閉じこもっている間に連れの女の子がホンカの魔の手に・・・と思いきや、結局普通の高校生の彼女には何も起こらない。これらのシーンは、殺人者も被害者もあくまで場末のガラの悪い酒場「黄金の手袋」の中にいて、普通の人々には無縁であるというメタファーになっている。観客にスリルを与えつつも、あくまでダメ人間が集う安酒場「黄金の手袋」が作品の舞台なのだということを示すいい演出になっている。
「普通と地続き」でありそうで、「普通の人」には無縁の世界
映画パンフレットを買ったのだが、有名人・文化人のコメントはもっぱらホンカに集中している。その際やや違和感を禁じ得ないのが、ホンカへの親近感、同類感、共感をほのめかすコメントである。
確かにダメっぷりは、普通の人と地続きなところがあり、劣等感からまともな付き合いをできないなど、了解可能な部分もある。個人的に「意外と普通だ」と思ったのは、真っ当になろうとして働いたビルでのホンカの振る舞いである。気さくに社交的に挨拶してくれる中産階級の社員達の中でのホンカは言葉遣いも合わせて、一応まともにやっていくのである。ビルの清掃員に恋もするが、彼女への態度も酒を飲んでしまうまでは、やや挙動不審ながらもそれなりに紳士的であり、「黄金の手袋」で引っ掛けた女達への侮蔑的・暴力的な態度とは対照的である。綺麗な女性、まともな女性には、劣等感から大胆にはなれないが、どうでもいい女にはぞんざい、といった態度も、了解可能な範疇のものである。
だが、酒場「黄金の手袋」の世界は、作品内の高校生たちの行く場所でなかったように、ミニシアターに本作を観にくるようなそこそこ文化的な観客達にはほとんど無縁の世界である。この酒場に集う人々は、「普通の人」が接触することのない人々である。
普通の人であれば「私の中のホンカが」みたいなことは考えもしないし、「共感」などしない。「黄金の手袋」的な酒場で酒欲しさに変な奴についていくことのない「あなた」の隣には、ホンカがいるはずもない。
酒場の魔力、普通への憧れ
ホンカは2度目の殺人の後、一度真っ当な生活に憧れて酒を絶って「黄金の手袋」に近づかないようにする。彼は快楽殺人者ではなく、酔っ払った勢いで自分がコントロールできなくなって怒りに任せて殺してしまう男であり、断酒中の警備員生活の中では割とまともである。うっかり飲んでしまって失敗し、また酒場「黄金の手袋」に帰ってきて、またホンカは「やって」しまう。
パンフレットでもう一ついただけないと思ったのが、ホンカや娼婦たちが「戦争」の産物だったのではないかという趣旨の文章である。ホンカがコミュニストの息子であり、父がコミュニスト故にナチス政権下で囲った不遇が、ホンカにも影響しているという話や、映画でも語られるところだがホンカの犠牲者となる女性が、かつて収容所で慰安婦をさせられていたことなど、確かに戦争の影響は無視できない。とはいえ、映画のポイントは「みんな戦争が悪かった」というような考えにはない。
確かに「黄金の手袋」に集う人々は少なからず戦争の影響を受けて、ここに行き着いている。だが、映画では、なぜここに行き着いたかには重点はない。ここに行き着いてしまった以上、ホンカのように自分をコントロールできなくなって人を殺すかもしれないし、あるいは殺されてしまうかもしれない。ここに行き着いてしまった以上、人は殺さないにせよかつての栄光の影に、他人に堂々と小便を引っ掛けるくらいのことは平気で行ってしまうかもしれない。
このような人々が存在したこと、その中で目を覆うような事件があったこと、そして被害者が社会からほとんど忘れられていたが故に、事件の発見も遅れ、ホンカの凶行を止めることも遅れたことが、この映画を見ると強く伝わってくる。この作品は、「普通の人」にはほとんど無関係な「黄金の手袋」の世界を突きつけて、一体あなたはどう思うか? と挑発しているように思われる。狭い意味での共感を呼び起こすものでは決してないが、観客が理解できたとすれば、その世界の見え方を確実に少し変える映画である。
周辺情報から考察
ジョーカーに不満のある人は・・・ 花沢健吾のコメントに寄せて。
タイトルにも挙げたこの文句は、漫画家の花沢健吾が映画のパンフレットに書いたイラストに 付記されているものである。
『ジョーカー』は、少々引っかかるところはあったが「不満」はなかったので、この文句をみて少し考えた。花沢氏の真意はよくわからないところもあるが、彼の漫画にも照らして考えると、腑に落ちる部分もある。以下、ジョーカーとホンカについて、花沢発言をもとに考えてみたい。
『ジョーカー』はみなさんご覧だろうか? 誰がみても結構面白いと思うので観ていない方は是非観て、それから読んでいただければ幸いです。
ネタバレしても面白いと思うので、気にしない方は観てなくても読んでいただければと思います。
ジョーカーはバットマンシリーズの悪役のピエロ。ピエロはどうでもいい道化の時もあるが、世界の悪を一手に担う恐ろしい存在でもあり得る。
バットマンシリーズは1960年代の映画第1作では、漫画原作のネタ映画的な能天気でビザールな作風だったが、ジョーカーが暗躍する『ダークナイト』などでは「悪の哲学」を紐解くような内容になっていたりして、振幅が激しい。『ジョーカー』は『ダークナイト』のジョーカーがいかにしてうまれたかといった内容。
ジョーカーは、もともとコメディアンを志望していた。不器用で、精神的にも不安定なところはあるが、心優しい青年(30代?)だった。ジョーカーは真面目に頑張っているが、ある日地下鉄で、金融エリートたちが若い女性にゲスな絡み方をしているのをみて、一人を殺してしまう。何も殺すことはない・・・とはいえ、観客はこのクソエリートがゲスであることを知っており、ジョーカーの行為が完全に間違ったものとは思わないだろう。映画でもジョーカーの犯行は「クソエリート」への反逆として認められ、社会的な話題になる。間は省くが、コメディアンとしてテレビに出演することになったジョーカーは、そこで売れないコメディアンである自分をあざ笑っていた番組司会者を撃ち殺すと同時に、自分が、クソエリート殺害の犯人であると電波に乗せて発信する。このメッセージは街の不満と共振して、大きなデモ→暴動に展開し、ジョーカーは、悪のヒーロージョーカーに変貌を遂げる・・・といった話である。
大変スリリングでジョーカーにも好感を持ちながら見たのだが、途中からずっと『タクシードライバー』と比較していた。そこでは仕事をしながら街の平和を案じている一人のタクシードライバーが、自らの「正義」の心を妄想的に肥大化させていって、「悪」とみなしたものに妄想的な「正義」の鉄槌を下すに至るまでの狂気が描かれていた。
タクシードライバーは1976年の作品だが、最近まで世界のモードはこのころとそんなに変わっていなかったのではないかと思う。つまり、「主観的な正義の追求は、世界全体から見ると大抵の場合妄想的で愚かで危険だからやめておけ」というメッセージが主流だったように思うのである。
『ジョーカー』に戻るとジョーカーは主観的には自分の夢を追っていて、そんな自分の努力を嘲笑う化のような存在に対して虐げられた末に牙を向いている。主観的には彼は正しい。『タクシードライバー』パラダイムであれば、彼の正義は妄想として「終了」のはずだが、『ジョーカー』では、むしろ彼の妄想に世界が共振していくのである。これを見たとき、世界のモードが変わったのかもしれないと痛感した。
ここで話を花沢とホンカに戻す。花沢は『アイアムアヒーロー』が多分最も有名だが、その前に書いていた『ルサンチマン』や『ボーイズ・オン・ザ・ラン』に彼の作品の核がおそらくある(白状するとアイアムアヒーローは最初の方だけしか読んでいない)。ボーイズ・オン・ザ・ランが本記事と関わるが、主人公はうだつの上がらないサラリーマンである。彼が恋した女の子は大変可愛いが、なんかいけ好かないが世渡りもうまくてルックスもまあまあな奴に奪われてしまう。主人公はこいつが実はゲスで最低だということを知り、彼女にそのことを伝えて救い出そうとするが、返り討ちにあって彼女からも嘲笑われる。
しかし主人公は諦めずに、タクシードライバーの主人公が妄想的正義の戦いに繰り出す時にしたモヒカン・ヘアに、自らの頭をカットして、再度いけ好かない奴をぶちのめしに走る。
詳細はあまり覚えていないが、こんな話だった。確か、最後までかっこよくはないものの、いけ好かない奴のことはぶちのめしていたはず。だが、いずれにせよ花沢の『ボーイズ』では、「自分の正義」が華々しい英雄物語にトントンとなることは現実には決してありえないという認識が繰り返し示されていた。無様な姿を晒しながら、それでも走るのが現実という感じだったと思う。
花沢はおそらく、ジョーカーのように、弱者が華々しくいけ好かない奴をぶちのめす話が成立すればいいが、そんなことは現実にはありえない、という認識を持っている。彼の視点から見ると、ジョーカーの展開はありえない展開である。
それに対して、ホンカはどうか。こちらは、正義がそもそもないが、弱者が弱者を食い物にするという悲惨な構図が描かれ続ける。妄想が正義になる世界の対極であり、ヒーロー的なカタルシスゼロの世界である。そして、花沢的視点からすれば、ホンカの世界は地獄であるが、現実であり、それを正してくれるような正義はないが、ありえない救いを告げる嘘はそこにはない。ジョーカーの世界は地獄であるが、妄想によって反転する世界である。正義のなさに対しては、「クソが!」という不満と怨恨が向けられ、この怨恨が成就してしまう世界である。
花沢の『ルサンチマン』では、ルサンチマンはどこまでいってもルサンチマンでしかないという認識が語られていたような記憶がある。この観点からいってもジョーカーの構成は甘いということになる。それに対して、ホンカのルサンチマンは、より弱者に向けられ、惨めなセックスと殺人に結びつく。怨恨は惨めな連鎖を告げて終わる。こちらのリアルを花沢は肯定したのだろう。
花沢本人は多くを語っていないようなので、勝手に再構成してみたが、そんなに間違っていないのではないかと思う。『ジョーカー』と比較するのは、流行っているものへの反感みたいなところもあるかもしれないが、的外れではないと思う。
とにかく、ホンカの映画は脳髄を刺激する陰鬱さがあるので、機会があれば是非ご覧ください、
U-Next31日無料を利用して毎日何を観る? 第18夜〜25夜 『都会のアリス』『さすらい』『消えた声が、その名を呼ぶ』『豚小屋』『ニーチェの馬』『愛のむきだし』ほか
私事で恐縮だが怪我の療養中である。毎日が日曜日ではないが、仕事は抑えめ、移動は最小限、時間はたくさんある。コロナ騒ぎでさらに仕事は控えめになった。
ということでアマゾン・プライムとU-Nextに無料会員登録して色々みていた。U-Nextの方が高いのでこっちを中心に見た。ラインナップも充実。
U-Nextではポイントが必要な映画と見放題映画に分かれている。見放題映画の中から31夜何を見るか考えてみた。現在17夜まで選択済み。本ブログはドイツ映画紹介が趣旨なので、半分以上はドイツ映画を入れるというシバリで選択。
現在まで
1『パーマネント・ヴァケーション』2『コーヒーをめぐる冒険』3『トリコロール/白の愛』4『ソウル・キッチン』5『マーサの幸せレシピ』6『浮き草』7『アポロンの地獄』8『ケレル』9『アナザー・カントリー』10『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』11『直撃!地獄拳』『直撃!地獄拳 大逆転』12『小人の饗宴』13『別離』14『ありがとうトニ・エルドマン』15『名もなきアフリカの地で』16『ブリキの太鼓』17『ロゼッタ』
本記事では映画の長さとそれに見合うかどうかに焦点をあてて紹介。
- 第18夜 『都会のアリス』(ヴィム・ヴェンダース監督作品)西ドイツ 1974年 107分
- 第19夜 『さすらい』(ヴィム・ヴェンダース監督作品)西ドイツ 1976年 175分
- 第20夜 『消えた声が、その名を呼ぶ』(ファティ・アキン監督作品) ドイツ、フランス、イタリア、ロシア、ポーランド、カナダ、トルコ、ヨルダン製作 2015年 138分
- 第21夜 結局観れなかった映画①『豚小屋』(ピエル・パオロ・パゾリーニ監督作品) イタリア 1969年 99分
- 第21夜 結局観れなかった映画② 『リアリティのダンス』(アレハンドロ・ホドロフスキー監督)チリ、フランス合作 2013年 130分
- 第22夜 結局観れなかった映画③ 『ニーチェの馬』 (タル・ベーラ監督)ハンガリー、フランス、スイス、ドイツ製作 2011年 154分
- 第22夜 結局観れなかった映画④ 『終わりゆく一日』(トーマス・イムバッハ監督) スイス 2011年 111分
- 第23夜 『ピエロがお前を嘲笑う』(バラン・ボー・オダー監督) ドイツ 2014年 106分
- 第24夜 『ヴィクトリア』(ゼバスティアン・シッパー監督)ドイツ 2015年 138分
- 第25夜 『愛のむきだし』(園子温監督作品)日本 2009年 237分
第18夜 『都会のアリス』(ヴィム・ヴェンダース監督作品)西ドイツ 1974年 107分
ドイツ映画を代表する監督の一人ヴィム・ヴェンダース。1970年代はニュージャーマンシネマの代表者として注目された。80年代以降、アメリカやフランスでも映画を撮っており、現在も現役。
『都会のアリス』はヴェンダースの初期ロードムービー3部作の1作目。ロードムービーは長く感じるものが多いように思うが、この作品は比較的コンパクト。
ヴェンダースの初期作品は、主人公自身が目標を失ってさすらうところに主眼があって、社会からの疎外感などをじんわり共感できるところが魅力だが、目標がないだけだと見ている方も途方に暮れがち。『都会のアリス』はアリスの祖母を探すという目的が設定されていて、またアリスとの交流の中で、途方にくれるだけでない部分がたまに閃めくので観た後すがすがしい。最後のシーンが名シーン。
ほどよい長さで見やすい。個人的評価は8.5/10
ヴェンダース作品は、あまりレンタルでもなかったりDVDも高かったりするのでU-Nextお得感は高い。
第19夜 『さすらい』(ヴィム・ヴェンダース監督作品)西ドイツ 1976年 175分
前夜に引き続きヴィム・ヴェンダースの映画。初期ロードムービー3部作の3作目で、おそらく一番人気があって評価が高い作品。ただしやたら長い。主人公はリュディガー・フォーグラーで『アリス』と同じだが、こちらの旅の相棒は男。時代からはずれかけた二人の男の自分探しと再生の旅。
ゆるいロードムービーで、緊張感で引っ張るタイプでもないので、いい映画ではあるが3時間集中して観れる人はすごいと思う。緩いが、いいシーンはいっぱいあるので、とにかく観てよかったと思える。
『アリス』などでは音楽と場面がやや食い違って、不安定感を出す形になっているが、『さすらい』は音楽が主人公たちに寄り添う形になっている。テーマ曲がとても琴線に響くブルース・ロックで音楽がかかるだけで泣ける場面が多々あり。時間がある人にオススメ。
詳しくは、過去記事をご参照ください。
個人的評価は8.5/10 いいシーンはアリスより多いが、いらないように思うとこもあるので同点数で。
第20夜 『消えた声が、その名を呼ぶ』(ファティ・アキン監督作品) ドイツ、フランス、イタリア、ロシア、ポーランド、カナダ、トルコ、ヨルダン製作 2015年 138分
邦題は長いが、原題は„the Cut“で「傷」の意。
監督のファティ・アキンはトルコ系のドイツ人で、若くしてベルリン(「愛より強く」2004年)、カンヌ(『そして私たちは愛に帰る』2007年)、ヴェネツィア(『ソウル・キッチン』2009年)で各賞を受賞。本人の出自もあって、文化間の「越境」や「雑多なものの共存」あるいは「異なるものの摩擦」といった文化と文化の間を積極的に描く監督。
本作は第一次大戦時にオスマン・トルコで起こったアルメニア人虐殺という歴史的モティーフを中心に据えたスケールが大きな作品。ただし虐殺事件そのものがテーマではなく、主人公がバラバラになった家族の生き残り(双子の娘)を探す映画。主人公は虐殺を生き延びるが、喉に「傷」を負って声を失い、家族ともバラバラになる。
前2夜で扱ったヴェンダースのロードムービーとは違って、旅の目的は明確。乗り越えるべき課題もその都度明白で眠くなるような映画ではない。一度切断された人生を、残された絆で繋ぎなおそうとする主人公の旅のゆくえから目が離せない。その中で主人公が悪にも手を染めるところが印象的。また困難な中で手を差し伸べてくれる人物たちが魅力的。
心に残る映画ではあるが、脳裏に焼き付くようなシーンをもう少し見たかった。音楽はメタリックなギターが効果をもたらしている。個人的評価 8.5/10
ちなみにファティ・アキンの個人的ベストは『愛より強く』で9.5/10
ファティ・アキン作品はU-Nextでは5本が見放題。おすすめは『ソウル・キッチン』と本作。
第21夜 結局観れなかった映画①『豚小屋』(ピエル・パオロ・パゾリーニ監督作品) イタリア 1969年 99分
昔レンタルして見ようと思ったが、内容に入って行けなくてそのままにしていた映画。こういうのはむしろ映画館で儀式として見た方がいいのだろうと思う。今回U-Nextで再挑戦。
パゾリーニお気に入りの現代と聖書的荒野との往復から始まる。荒野で飢えた放浪者と、ブルジョワの邸宅の往還。『テオレマ』もそうだが、1960年代後半の革命的高揚の雰囲気がわからないので、ブルジョワの(自己)批判はイマイチ入って行けない。『アポロンの地獄』や『王女メディア』は、神話部分が独立しているので、普通に観れるが、物語らしい物語が出てこないのがきつい。荒野で二人の戦士が謎の戦いを繰り広げる場面で挫折。
観た範囲だと3/10点。
パゾリーニは『アポロンの地獄』などもU-Nextで見られる。こちらおすすめ。
第21夜 結局観れなかった映画② 『リアリティのダンス』(アレハンドロ・ホドロフスキー監督)チリ、フランス合作 2013年 130分
『豚小屋』の挫折ついでに、かつて挫折した『リアリティのダンス』の再見を試みる。
2013年頃、一回レンタルして見ようとしたが、途中で脱落。この時一緒に借りた同じくホドロフスキーの『ホーリー・マウンテン』(1973年)は一応全部見た。キッチュなオカルト趣味がインチキくさかったが、そんな時代だったのかと思って興味ぶかくはあった。今回、『リアリティのダンス』がU-Nextにあったのでもう一回チャレンジしたが、以前見たときと感想は変わらず、同じあたりで挫折した。
最初の箴言のような金と意識の話から鼻白むが、これはたぶんホドロフスキーの自伝的映画。強権的でマッチョなスターリン崇拝者の父親に抑圧された自分、なよなよした自分に金髪のカツラを被せて愛した空想過多の母親・・・こういった関係がわかるように作られてはいる。だが、強権的な父親がひたすら強権的なのはいいとして、空想気味の母親のセリフが、たぶん彼女の趣味だったオペラ調で、つねに歌われるという演出がきつい。状況自体結構特殊なのだから、きっちり描けばいいものを、全部比喩的な描き方で、しかもそこに本人の思い入れが入ってくるからつきあっていられない。不具者が出てくるシーンも露悪なのか、差別主義者を告発するのか曖昧で、結局露悪にしか見えない。
32分頃父親が母親を犯すシーンで喘ぎ声がオペラのところで挫折。一応終わり間際にとぶと母親がまだオペラだった。
評価1/10 もう観ない。
第22夜 結局観れなかった映画③ 『ニーチェの馬』 (タル・ベーラ監督)ハンガリー、フランス、スイス、ドイツ製作 2011年 154分
これは評価はけっこう高いらしい。ベルリン国際映画祭で賞を獲っている。哲学者ニーチェが発狂前後に、鞭打たれる馬に駆け寄って涙したとかしないとかいう、興味をそそるエピソードにインスパイアされたということで見てみる。
開始からしばらく一切会話のない農夫と娘の描写。農夫が帰宅して靴を脱ぎ、ふかしたジャガイモを食べるシーンが延々続く。淡々とした農夫の生活を淡々と描くという趣旨だと思うのだが、ひたすら長い。馬も出てきたが、特に何も起こらない。淡々としすぎの展開に耐えられずに挫折。U-Nextの無料会員期限も切れるので視聴も断念。
イモを食べるシーンはそれなりに興味深いとはいえ、単調さを表現するための単調な場面は、延々見せられる方としては正直きつい。とはいえ、この単調さを通り抜けると事件も起こるらしいので、いずれ暇と機会があれば再チャレンジするかも。
観た範囲で2/10点
第22夜 結局観れなかった映画④ 『終わりゆく一日』(トーマス・イムバッハ監督) スイス 2011年 111分
さすが紀伊国屋書店、こんな映画のDVDを発売している。映画というか室内から窓越しに外の景色を撮った映像に、その部屋にかかってきた留守電が重ねられる。これが、おそらく延々続く。劇映画とはかけ離れている。ドキュメンタリーにしても私的すぎる。けっこういろんな人から電話がかかってきていて、おそらく留守電を聞いているうちに部屋の主(監督自身?)のことが浮かび上がったり、浮かび上がらなかったりするんだろう。解説によると15年分の素材を使っているらしい。
もしかしたら面白いこともあるのかもしれないが、ほぼ同じような場面が続くらしいとわかって早々に断念。映画館だったら、意地でも見たかも。
見た範囲では 1/10点。仮にこの監督が別にすごい映画を撮っていて、それにノックアウトされたらもう一回チャレンジするかもしれないが、そんなことはおそらくないだろう。
第23夜 『ピエロがお前を嘲笑う』(バラン・ボー・オダー監督) ドイツ 2014年 106分
変なアート系はやめて、一気に見れる映画を。監督のバラン・ボー・オダーはスイス生まれの若い監督。本作はドイツでの2作目で、大ヒットした。本作の成功をうけてアメリカでも撮っている。
ハッカー集団が起こした事件を、つかまった犯人が捜査員を前に回顧しているシーンから始まる。青年の成長史、青春映画的な仲間との成り上がりストーリーをはさみつつ、事件に巻き込まれるサスペンス的展開を経て、トリック・トリック・トリックみたいな展開。途中で中断しながら見ようかと思っていたが、予定を変更して最後まで一気に観てしまった。
個人的には青春映画パートが好き。このパートはおそらくドイツの若い観客を意識していてここが弱くて、トリックだけだとヒットしなかったと思われる。
スピード感重視だったんだろうが、仲間の描写や最後の方の説明はもう少し丁寧でもよかったのではないかという印象。時間に見合ったドキドキと満足感。8.5/10点
過去記事でもう少し詳しく紹介してます。
第24夜 『ヴィクトリア』(ゼバスティアン・シッパー監督)ドイツ 2015年 138分
これはワンショットで138分ということは聞いていたので、少々身構えて時間もとって見た。ベルリンのクラブで主人公のヴィクトリアがはじけきれない感じでいるところから始まり、地元のうだつのあがらない感じのチンピラと友達になるまったりした展開かと思ったら、急展開していく。もしかして、一歩踏み違えるとこんな夜もあるかも感がなかなかスリリングな映画。長いが一気に見れます。
スペインから来て不本意なヴィクトリアと、ベルリンの地元の不良の交流場面がよいフックになっている。最後の方の展開が少し読めてしまうのが個人的にはちょっと残念。それでもワンショットで全部撮ったことにも敬意を表して8.8/10点。
過去記事でもう少し詳しく紹介しています。
第25夜 『愛のむきだし』(園子温監督作品)日本 2009年 237分
長いが一気に観てしまう映画といえばこれ。3章立てになっていて、最初の疑似キリスト教的な雰囲気から一転して盗撮修行するに至る展開に笑ってしまうが、ここから謎の決闘シーンに突入して『愛のむきだし』のタイトルが出るところでとてもワクワクしてしまう(ここまででちょうど1時間くらい)。これまで何度か観たが、このタイトルのところまで見ると結局最後まで観てしまう。
『女囚さそり』など、色々元ネタもあって遊び部分がけっこう無駄に入っているが、そのあたりも込みで楽しめる。修行シーンは『直撃! 地獄拳』などのバカ映画系列。途中色々粗いところもあるような気もするが、結局最後のシーンにいたって泣いてしまう。
西島隆弘(AAA)はこの映画でしか観たことがないが、とても役にあっている。満島ひかりはまだ体当たり感が強い。安藤サクラはもう出来上がっている。
9.5/10点
U-Nextで『冷たい熱帯魚』も見放題。グロいですが、こちらもおすすめ。9点。
男の二人旅、音楽最高、モザイク少々。長いが見る価値大。『さすらい』ヴィム・ヴェンダース「ロードムービー3部作」第3作
『さすらい』1976年、西ドイツ。
ヴィム。ヴェンダース監督、リュディガー・フォーグラー、ハンス・ツィシュラー主演。175分。
ヴィム・ヴェンダースの「ロードムービー3部作」の3作目。カンヌ映画祭の批評家連盟賞受賞で批評家からは3作中一番評価が高いと思われる作品。制作費73万800マルク(1976年当時8700万円、現在だと3億5000万円くらい)。1975年の6月から11週間で撮影された。
https://de.wikipedia.org/wiki/Im_Lauf_der_Zeit
本記事では映画の個人的感想とポイントの考察を書きます。ネタバレというほどのネタがあるタイプの映画ではないですが、内容自体の紹介はあまりしません。
- 白黒、音楽良い、モザイクありの、ロードムービーらしいロードムービー
- 音楽以外は演出少なめだが、わりとストレートにセンチメンタルな映画
- 俳優
- タイトルとテーマ 時の流れの中での男たちと映画
- 音楽
- 脱落男たちの映画
- その他こまかい話
- ・宮崎駿への影響?
白黒、音楽良い、モザイクありの、ロードムービーらしいロードムービー
画面は白黒、音楽はドイツのバンドImproved Sound Limitedが担当した哀愁のブルース・ロック。二つの決め曲が琴線に触れる。二人の男が東西ドイツの国境付近をさすらう映画。二人ともそれほど若くはなく、すでに「挫折」を経た後の人間。その二人が今や廃れつつある地方の映画館を回っていく旅が3時間近く続けられる。
正直削ってもいいように思うシーンもあるが、いいシーンがたくさんある映画。演技もよいし、風景や小物もよい。チンコなどが出ていたり普通の映画には入らないシーンも込みで、全体にゆったりと進む。激しいシーンはないが、モザイクがかかるシーンはいずれも笑ってしまう。
主人公が運転する引っ越し用トラックが印象的で、ロードムービーらしい車のショットを楽しめる。ロードムービー3部作では一番ロードムービーらしい。旅の目的もよくわからないままに、地方映画巡業していく様とその中での二人が描かれていく。
続きを読むタイトルから何の映画かわからないのが残念・・・『シャトーブリアンからの手紙』(フォルカー・シュレンドルフ監督作)は地味だけどいい映画。アマゾン・プライム、U-Nextなどで視聴可能
『シャトーブリアンからの手紙』2011年、フランス・ドイツ映画(テレビ用映画)。ドイツ語原題 „Das Meer am Morgen“(『朝の海』)
フォルカー・シュレンドルフ監督、90分。
タイトルとパッケージを見ても、いまいち何の映画かよくわからない感じ。最初は昔のフランス人作家のシャトーブリアンの話かと思ったが、鉤十字なのでナチス関連ということはわかる。監督は『ブリキの太鼓』のフォルカー・シュレンドルフ。シュレンドルフは文芸系映画に強いので、これもそうかと予測してみた。最初地味でイマイチかと思ったが、良い映画だった。本記事では、映画のポイントと特色を紹介。
- 映画のポイントと内容
- 特色1 地味な政治犯たちの地味な英雄性 冒頭とラストの対照
- 特色2 虐殺を止められない人々の描写
- 特色3 良心の苦悩<<<<<<<<<<<立派な死
- おまけ
- 『シャトーブリアンからの手紙』ドイツ語版ウィキペディア
映画のポイントと内容
・第2次大戦時のドイツ占領下のフランスが舞台で実話の脚色。
・元になった事件:レジスタンスによるドイツ人将校の暗殺の復讐として150人のフランス人が処刑された。段階的に処刑が進むが、てはじめに政治犯(共産党員など)が処刑されることになる。
・シャトーブリアンは作家でも肉でもなく、地名。シャトーブリアンに政治犯収容所があった。
・シャトーブリアンの収容所には17歳の少年ギーも混じっていた。ギーが最後に同じく収容所にいたガールフレンドに宛てた手紙がフランスでは、レジスタンス追悼の文脈で有名。
・レジスタンス映画では、普通暗殺者などヒーロー性のある人物が主役になるが、この映画では、暗殺の結果報復で処刑される人物たちに焦点があたる。
・また、悪役であるドイツ軍も、特に悪者化されて描かれていない。出てくるドイツ人は、当時のドイツの中でも比較的ニュートラルな職業軍人たちであって、いかにもナチスな人間はでてこない(組織でいうと出てくるのは「国防軍」の軍人であって、ユダヤ人虐殺やコミュニスト弾圧の代名詞のナチス親衛隊やゲシュタポではない)。
・制作は、フランス・ドイツどちらでも放送を行っているテレビ局ARTE。90分ほどのコンパクトさの中に、服従と罪、信念と愛が凝縮されている。
続きを読む落ち着きどころがないままの『まわり道』・・・ヴェンダースの「ロード・ムービー3部作」2作目。ナスターシャ・キンスキーの微妙にコケティッシュな雰囲気
『まわり道』1975年。原題 „Falsche Bewegung“ (『間違った動き』)
ヴィム・ヴェンダース監督、リュディガー・フォーグラー主演、103分。
作品情報 前後のヴェンダース作品との関連
ヴィム・ヴェンダースの俗にいう「ロードムービー3部作」の2作目。
前作『都会のアリス』とは違ってカラー。カラーだが、全体に灰色の空が多く、雰囲気は前作よりむしろ暗い。音楽もテーマが不穏な響き。
主人公を演じるのは前作同様リュディガー・フォーグラーで、本作では作家志望の青年ヴィルヘルムを演じている。小説を書くための経験の旅に出た彼が、途中知り合った人物たちと連れ立ってさすらっていく。
原作は1972年の『ゴールキーパーの不安』と同じくペーター・ハントケ。ハントケは映画の脚本も担当している。
制作費は620000ドイツマルク
https://ja.wikipedia.org/wiki/まわり道
1975年当時でおよそ7500万円、で消費者物価だと当時から4倍くらいあがっているので、現在だと3億円くらいにあたる。めちゃめちゃ低予算というわけではない映画。
本記事では、ネタバレなどはあまりないよう、内容にはあまり踏み込まずに、作品の特徴やポイントを紹介します。
主要人物
主人公ヴィルヘルム
作家志望の青年。母親が商店を所有しているなど多少財産のある中産階級の息子。作家業の糧とするため旅に出る。北ドイツの都市グリュックシュタットからハンブルクを経て、ボンへと向かう。途中知り合った道連れたちと共に旅する。
テレーゼ
女優。ハンブルクの乗り換え時にヴィルヘルムと目があう。ボンで合流して一緒に旅をすることに。
老人ラエルテスと少女ミニヨン
老人は路上歌手、ミニヨンは10台前半の少女で大道芸をしている。ミニヨンはしゃべらない。老人は列車でヴィルヘルムと知り合い、彼に乗車券をおごらせたりホテルをおごらせたりする。よく言うセリフは「訳は後で話そう」。ヴィルヘルムはそれも一興というように、彼らを連れて歩く。
そのほか、へぼ詩人のランダウも加わり旅はすすむ。
現代版教養小説=自己形成不全の示唆
『まわり道』が下敷きとしているのは、ゲーテの教養小説『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』で、上で挙げた四人はゲーテの小説でも同名の似た人物が出てくる。
ゲーテの小説は、教養小説=ビルドゥングスロマーンである。教養=ビルドゥングとは人格形成のことである。主人公が様々な経験を積み人々と関わることで、自分のすすむべき道を知っていくという展開であり、ゲーテのこの作品以来ドイツの小説の一ジャンルとなっている。
『ヴィルヘルム・マイスター』同様、『まわり道』のヴィルヘルムは仲間とともに教養形成の旅をする。しかし、ゲーテ作品とは違って、ヴィルヘルムはいわば「間違った運動」をするばかりで、個人の人格形成による人生行路の発見といった物語が現代においては機能していないことを示している。
交流不全の描写
詩人ランダウは積極的に自身の詩を披露し、宿を借りることになった別荘主も必要以上に自己を開示し、自説を開陳するが、彼らの語りはほとんど独白として消えていく。ヴィルヘルムは世界を眺めるが世界に開かれてはおらず、それゆえに『まわり道』にはゲーテにあったような魂の交流と「真実」の発見がない。
ヒリヒリするでもなく、ほっとするでもなく、大きな波乱もないままに、あてどなく旅は進み、映画は終わっていく。
前作『都会のアリス』のラストもそうだったが、映画の終わりは主人公の人生にとってとりたてて大きな区切りではない。前作は明るめの転換点に見えたが、今作は特に暗い訳ではないが、明るくはない終わりである。テーマ音楽の不穏な響きが落ち着かないままに消えていくように、物語も大きな着地点なしに放り出されていく。
その他特徴的な点、まとめ
個人的には『都会のアリス』にあったような感動はなかったが、面白い要素はけっこう多い作品だった。
・老人ラエルテスを演じる俳優ブレヒのいんちきくささと、彼のハーモニカが入るタイミングがよい。
・この映画ではテレーゼ役のシグラをはじめ、へぼ詩人ランダウを演じたペーター・ケルンなどファスビンダーの映画でよく見る俳優が登場している。ケルンは同年の『自由の代償』でも同じようなとぼけた間抜けの雰囲気で面白い。
・主演のリュディガー・フォーグラーは、どちらかというと緩めのキャラの方が愛嬌があって良いように思う。本作の青年はあまり近づきたくないタイプの人間。
・ロードムービー3部作の中では一つだけカラーということもあり、やや異色。落ち着かない雰囲気は、同じくペーター・ハントケが原作の『ゴールキーパーの不安』にむしろ近い印象。
・ 車に乗っている印象が弱く、わりと歩いているシーンが多い。移動感は、ロードムービーとしてはそんなにない。
・ミニヨンの妖しげな魅力:これは『アリス』にはなかった要素。この作品で映画デビューしたナターシャ・キンスキーが、少女のコケティッシュな微笑をみせている。最近だと問題になりそうなシーンもあり。
画面の基調は季節(おそらく秋から冬)もあってやや暗めだが、ミニヨンの色彩がその分際立つ。
U-Nextで無料視聴可能です。
主人公が好きになれないが・・・『僕とカミンスキーの旅』 「盲目の天才画家」と伝記作家のロードムービー(未ソフト化 U-Next視聴)
2015年、ドイツ。原題 „Ich und Kaminski“ (『僕とカミンスキー』)
ヴォルフガング・ベッカー監督、ダニエル・ブリュール、イェスパー・クリステンゼン主演。124分。
2003年に『グッバイ・レーニン』で母親思いの好青年を演じたダニエル・ブリュールと監督のヴォルフガング・ベッカーが12年ぶりにタッグをくんだことでも話題の映画。
アート・ジャーナリストのツェルナーが盲目の画家マヌエル・カミンスキーの伝記を書こうとしている話。カミンスキー本人に取材の中で、カミンスキーのかつての恋人探しの旅に出ることになる(ロードムービー風になる)。映画冒頭のカミンスキーの軌跡のまとめで勘違いしかねないが、カミンスキーは架空の画家である(映画ではマティスの弟子でピカソにも認められたことになっている)。
原作はドイツの小説家ダニエル・ケールマンが2003年に出した同名小説(ドイツでは18万部売り上げのベストセラー作。)。ケールマンの次作『世界の測量』(2005年、ガウスとフンボルトの伝記的小説)は世界的ベストセラーに(ドイツでは120万部売れた)。
有名作家の小説をスター主演で映画化した本作だが、ドイツでは大ヒットはせず。日本では細々と上映でソフト未発売。U-Nextで視聴可能。
主人公ツェルナーが好きになれない
決定的な問題だと思うのが、主人公ツェルナーのキャラクターである。アート業界の嫌なヤツらを出し抜こうとするやや下品な31歳の青年。アーティストを目指して挫折したが、アート業界の周辺部で成功を狙っている。盲目の画家マヌエル・カミンスキーの伝記を書いて、カミンスキーの死のタイミングで売り出そうとしている。
ツェルナーはネタを探しにスイスの山奥に住むカミンスキーに取材に向かう。
続きを読む