メナーデのドイツ映画八十八ケ所巡礼

メナーデとは酒と狂乱の神ディオニュソスを崇める巫女のことです。本ブログではドイツ映画を中心に一人のメナーデ(男ですが)が映画について語ります。独断に満ちていますが、基本冷静です(たまにメナーデらしく狂乱)。まずは88本を目指していきます。最近は止まっていましたが、気が向いたときに書いております。

D. H. ロレンス 『チャタレイ夫人の恋人』

D. H. ロレンス作の『チャタレイ夫人の恋人』はスキャンダラスな姦通小説として知られ、日本でも裁判沙汰になっている。映画化もされているが、レンタルビデオ屋(最近行っていない)では官能ドラマジャンルに置かれていたりする。なので、これまで完全にイロモノで読まなくてもいいものかと思っていた。だが、私がいうまでもないのだろうが、これはとても真摯な名作である。ロレンスは真摯な作家だと思う。

 

映画は一度ネットで落ちているものを途中まで見たことがあった。

 

チャタレイ夫人の恋人(字幕版)

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舞台は第一次大戦後のイングランド、一地方を領有する貴族であり作家のクリフォド・チャタレイは戦争時の傷で下半身が不能状態である。このクリフォドと結婚していたコンスタンス・チャタレイ=チャタレイ夫人がこの物語の主人公である。映画はざっと見た感じたと、不能の夫に満足できずに、庭番と不倫する話のように見えて、いかにも通俗的な話かと思ったが、性的な交流が満足にないパートナーと一緒にいる意味は何なのかという根源的な問題を突きつけていることはわかって、面白そうだと思っていた。不能な貴族の夫に代わって結ばれるのは、領地の森番をしている野生的な要素を持った男であり、労働者階級の方が性的=生物的には優れているという図式かと思われた。だが小説を読んでみると、もっと複雑な問題を追求しようとしていることがわかった。ロレンスは真摯な作家である。

 

ロレンスは1885年にイングランドに生まれている。父は無学だが色男だった炭鉱夫、母はピューリタンで結婚当初は夫の自分とは違った魅力に惹かれていたが、ロレンスを産んだ頃は、夫の金銭や酒へのだらしなさを軽蔑するようになっていた。当時の作家は概ねは貴族や教養層であり、ロレンスは出自からして、下層の要素を持っていて、これが『チャタレイ夫人』でも重要な要素になっている。

 

ロレンスは母の味方であったようである。彼は母と同じく、月の稼ぎを酒で無駄にしてしまう炭坑夫の生活を憎みながらも、その存在が自分の生育そのものでもあることを意識し、「下層」であることの悲哀を知っていた。「下層」から見た「世界」、下層から見た「上層=貴族」といった視点が作品にはふんだんに導入される。ロレンス自身は、下層出身でありながら、詩人、作家として認められ、教養ある文壇に参入していた。貴族や教養層が「下層」をはじめから野蛮で軽蔑すべき存在として切り離していたのとは違って、教養を身につけ作家となったロレンスの認識は、下層の人々は野蛮で軽蔑すべきであるにせよ、そういった人々が存在し、自分もそういった存在の端くれであると考えていた点で、複雑かつ鋭いものになっていく。

 

クリフォド・チャタレイは車椅子なしには移動できず、性的にも不能な存在だが、現代的作家としての名声を得ており、実業家としても成功している。「精神的」あるいは「経済的」な領域では彼は成功者である。チャタレイ夫人=コンスタンスは、物語の冒頭では、このクリフォドとの穏やかかつ知的な「精神的生活」に大きな疑問を持たずにクリフォドを支えながら暮らしている。クリフォドはわかりやすい形で、「不能者」という設定になっているが、多くのセックスレスの夫婦を考えれば、クリフォドの話は、特殊な話ではない。セックスレスでも精神的な安定があるのならいいではないかと多くの夫婦は考えているだろう。セックスは一時的、あるいは動物的なものであるのだから、そこに重きをおかなくてもいいだろう。

 

ロレンスは、当時の教養層が「不能」ではない場合でも、こうした性的次元を無視、あるいは「処理」すべき領域に落とし込んだ上で、精神的領域を高く見ていたことを冒頭数章で描き出す。精神的な領域はそれ自体としては、高尚であり得、衝動を廃して、純粋な理念や理想、美を語るのはそれ自体はいいことであり得る。それゆえ若いチャタレイ夫人=コンスタンスは、当初は、こうした「精神生活」に「性」の領域よりも高い期待を置いていた。だが、次第に彼女は気づき始める。自分が男性たちの「精神生活」のアクセサリーにされていること、そして、「精神生活」はしばしば「性的領域」をはじめとする根源的なものを等閑視するための言い訳としてあることに彼女は次第に気づいていく。クリフォドは不能者であるがゆえに「精神」や「経済」に没入していくというふうに描かれていてわかりやすいが、こうしたあり方は多くの男性に多かれ少なかれ見られるものだろう。

 

「チャタレイ夫人」の「恋人」となる森番はこうした状況で現れてくる。面白いのは「森番」の位置付けである。彼は単に下層、労働者、あるいは根源的な生に触れるプリミティヴな存在として現れてくるわけではない。言い換えると、不毛な精神の体現者である教養層に対するアンチテーゼとして現れてくるわけではないのである。彼は生まれは田舎の育ちではあるが、教育によって教養も得た人物であり、一部は炭坑夫の息子であるロレンスの自画像である。森番はしかし軍人となり植民地において将官として勤めた経験もある人物であり、エスタブリッシュメントの世界に半ば足を踏み入れていた。しかし彼は、社会の中でしっかりとした地位を得ることには向かわず、故郷に帰ってきて、クリフォドの領地の森番として生きることを選んでいた。妻との荒れた生活や世俗的出世をめぐる行為の虚しさを経験して、彼は人との関わりを避けるようになり、半ば隠遁した生活を過ごすために森番になったのであった。

 

この「森番」はつまり、将官という形で、上層に食い込みえた人物であり、そこからクリフォド的な「精神生活」を云々する社会階層にも関わり得たにもかかわらず、それに背を向けた人物である。チャタレイ夫人の前に現れる森番は、夫の「不能」とその弁明としての「精神生活」とは違う道を示しうる存在なのである。

 

ここから、コンスタンス=チャタレイ夫人と森番が次第にお互いの魂に触れていく過程、そして、お互いが何を求めて近づいていくのかが丁寧に描かれていく。「森番」は饒舌ではないが、時々その「思想」を語る。この思想が極めて真摯であり、非常に胸を打つものがある。彼は、人間が人間を愛し得るとしたら、お互いの違いや衝動のわがままを認めつつ、お互いに優しくあろうとすることによってではないかということを語る。

 

小説中では性行為における「体位」のようなわりと際どい問題も示唆される。ポルノ的文脈ではネタ的に大いに話題になるものの、実際の場面で腹をわって話すのはなかなか難しかったりもする問題ではないかと思われる。性行為においては自分がしたいことと、相手が望むことのぶつかりあい、その中での相手への配慮の微妙なバランス、そして相手への共感のようなものが問題になってくる。ロレンスは、こうした場面での少しの優しさが、根本的に大事なことではないかと、この小説で示している。人間は「教養」や「精神」によって武装することで、こうした「優しさ」を考えることから自分を免除しようとする。だが、それは根本的に間違っているのではないか。ロレンスはこう訴えかけている。

 

ロレンスは天下国家の話をしていない。また、人間の本質を語っているが、大上段に人間論を語るのではない。人間と人間が交わり合う中で大事なことは何だろうか、お互いのエゴと間違いを認めつつも、そうした中でお互いが愛し合うことができるとしたら、そのためには何が必要なのかということをひたすら問うている。

 

冒頭の話に戻るが、「優しさ」は誰のものか、という話を階級を問題にしつつ階級論に還元しないのがロレンスの特徴である。優しさの資格を、金や自己承認の欲望に塗れた「貴族」ではなく、市井の人々、「労働者」や炭坑夫に認めるというのではないのである。森番の妻に代表されるように、多くの下層の人々は「優しさ」を考える余裕を持たない。ロレンスの父もそうだったろう。貧窮ゆえに優しくなれない人に対して、ロレンスは、完全な軽蔑を持って突き放すわけではないが、「人間だもの」式に肯定することをしない。優しくあろうとしないのはやはりいけないことだと、ロレンスは言っているように思われる。人が人に対して優しくできないのだとしたら、そうした状況を変えるべきだろう。

 

優しくあろうとすること、自分の心に誠実であろうとすること、他人に対しては階級や階層で決めつけないこと。彼や彼女が優しい誠実な魂を持っているのか、あるいは持ちうるのかということだけが重要であること。こういった根本的な人間や人生への姿勢を『チャタレイ夫人の恋人』という小説は問うている。

 

繰り返しになるが、この問いは極めて真摯なものだと思う。こうした問いを回避したところには本当のことは現れてこないだろう。

 

ロレンスは完璧な思想家でも作家でもないだろうが、真摯な作家であることは間違いないと思う。