『山田玲司のヤングサンデー』からの『卒業』
山田玲司のヤングサンデー
最近ちょくちょく見ているニコニコ動画(youtubeでも観れる)「山田玲司のヤングサンデー」は、漫画家山田玲司を中心にご機嫌なメンバーがじゃれあっている楽しい番組なのだが、山田玲司の教養と語り口のわかりやすさと本質を捉える力、衒学的にならずにエンターテイメントとしても楽しめるバランスがとても良い。メンバーより年上の「兄貴」役で「レイジさん」「レイジさん」と慕われているのだが、見ていても自ずと「レイジさん」と呼びたくなる、サブカル紳士山田玲司から目が離せない。
彼の漫画はあまり読んでないのだが、『アリエネ』は立ち読みで知っていたこともあって、全巻買って読んだが、爽やかかつ熱い良作である。
主人公だけでなく、出てくる人物人物に愛着が沸く。鹿児島から出てきた朴訥な天才肌が、パンチらを見てしまったシーンが何故か忘れられない(パンチラでキュンとしたのも久しぶり)(4巻くらい?)。
彼が漫画について語る話も面白いのだが、映画の話がとても面白い。個人的に観てきたものとほとんど違うものを膨大に観ている。個人的には邦画以外では、ドイツ映画に比較的偏って見てきていて、アメリカ映画をあまり見ていなかった。山田玲司は、アメリカ映画を幅広く見ているようなのだが、好きな映画を語るときに、とても見てみたくなるように熱く語る。毎週毎週あの熱量で話すというのはなかなかすごい(それに加えて居酒屋などでもっと話しているのだろう)。
山田セレクションのうちで今気になっているのは
アニメだが『少女革命ウテナ』(!?)
この人が信頼できると思ったのはゼータガンダムの解説動画の鋭さと深さを感じてからだったが、信頼できる人が良いと言っているものは見て見たくなるものである。彼が『少女革命ウテナ』について楽しそうに語っているのをみなかったら、一生触れることはなかっただろう。開かれなかった引き出しを開くきっかけを与える男、山田玲司。
ウテナは第一話を何気に見たら、なかなかの衝撃だった。セーラームーンの後のフォーマットを寺山修司経由のスタイルで、女性の願望と苦境をえぐるようなアニメになっている。
上に挙げたのはどれも一見ダサそうだが、『スクール・オブ・ロック』などは実際見ると激アツである(これは山田玲司と関係なく見ていた)。
クロニクル:山田玲司の得意技
山田玲司(50台後半)の語り口には大きく言って二つあるように思う。
1 自分の情熱的な部分の核を開陳していく
2 論じる作品の歴史的位置付けを整理していく
1の語りで話す人はもちろんいるだろうが、そういった語り口は「ライドできない=ノレない」場合全く面白くなく、むしろ反感を覚えてしまうこともあるだろう。2が出来る人も少なくないだろうが、整理してくれるのはありがたいが、そこに何か魂のようなものが乗っかっていない話は、心を打つことは少ない。
山田玲司の稀有なバランスは、自分がそこまでライドしていない作品を2の手法で語りつつ、そうした時代を自分がどう見ていたかという話を盛り込むことで、作品を語る自分自身の話に自らライドしていくところで成り立っていると思う。興味がそれほどない作品でも、距離をとって話すというのではなく、その作品と自分の距離を保ちつつ、その距離が生まれる自らの必然性を常に問題にしているから、距離があっても話に熱が入っている。
この距離をとりつつ乗っかっていく話術が発揮されるのが「クロニクル」である。あるテーマが時代とともにどう変遷していったのかを、山田玲司支店でザックリかつ鋭く整理していくのだが、これがかなり面白い。
映画クロニクルの中でのアメリカン・ニューシネマの位置付けが、非常に明快で、かつ見てみたくなるような整理だったのでザックリ紹介したい。
アメリカン・ニューシネマ=ベトナム戦争
少し迂回して自分の話をすると、ドイツ映画が好きで、ファスビンダー などの「ニュージャーマンシネマ」が結構好きであった。ファスビンダー の映画は、普通のエンターテイメントではなくて、女性や若者、老人やゲイが愛と階級差がもたらす軋轢の中で悲しみや狂気に囚われていく様が描かれていて、かつそれが教育的な観点を持っており、「人は人に対してこういうことをしてはいけない」ということが観ている者にも痛切にわかるように描かれる。
ファスビンダー はゴダールらのヌーヴェルヴァークに影響を受けたと言った話は聞くけどイマイチピンとこない感じで、歴史的になぜこういったものがあるのかよくわからない感じだった。
少し調べると、ヌーヴェルヴァーグの同時代現象としてニューハリウッド=アメリカン・ニューシネマがあることもわかってきた。だが、イージーライダーもゴッドファーザーも最後まで見れなかったくらいなので、アメリカン・ニューシネマがなんなのかイマイチよくわからない。
そんな時に山田玲司の説明ですごく色々クリアになった気がした。
玲司の説明は明快で、ニューシネマは1965年のベトナム戦争をきっかけに、多くの疑問を突きつけられた若い世代の映画で、プロテストの気運と無力感の間を行き来する。ベトナム戦争に国家が乗り出すことへ若者たちはプロテストし、ロック、ビートルズなども連動して平和運動が起こったりもした。ただし、若者の間では盛り上がっても社会的趨勢を決定的に動かすことはできず、挫折を突きつけられた。この苦境を反映して、ニューシネマはハッピーエンドで終わるのかと思っても、不意の交通事故でバッドエンドに終わったりして、若さの反抗は大抵実を結ばない。こうした説明の上で玲司が提示するのは「とにかく反抗する若者が結局は死ぬのがアメリカン・ニューシネマである」というテーゼである。その後の展開も玲司クロニクルは追っていく。多くの人々がニューシネマの抱えた挫折に食傷していく中で、70年代後半のスターウォーズ、スピルバーク時代に移行していくというのが山田玲司流アメリカ映画クロニクルである。
非常にザックリしているのだが、大きな流れはこのくらいザックリしている方がわかりやすい。
この玲司テーゼを踏まえると、ヌーヴェル・ヴァーグやニュージャーマンシネマはそのヨーロッパ的変形版として理解できる。アメリカン・ニューシネマ=ニューハリウッドは、既存の類型的物語を逸脱して、若い作家性を良しとしていた。この方向性は予算がなくてもある程度実現できる。ハリウッドに比べると予算の少ないヨーロッパ勢にとって、こうした傾向はむしろ歓迎すべきものである。こうした新しい波に乗る動きがヌーヴェル・ヴァーグであり、ニュージャーマンシネマだった。ヨーロッパでは、ここにさらに、古くからのアートの伝統を後ろ盾にしながら、映画の作家性を評価するカンヌをはじめとした映画賞文化が国を挙げて振興されていく。ヨーロッパ映画、少なくともドイツ映画に関しては、国や地方の支援が非常に大きな役割を占めている。ファスビンダー の映画が現在見られるのも、単に作品の力というだけではなく、こうした公の力も大きかった。
ドイツ映画の社会的な解釈については以下の本が詳しい。
『卒業』
「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」という歌はなんとなく知っていて、そのラストが伝説的であるらしいことは、見たことがなくても知っている映画『卒業』。特に見なくてもいいかと思っていたが、山田玲司がしばしば言及し、ニューシネマというくくりで見た時も代表作である本作を見ないわけにはいかない。ということで見てみた。
「年上の人妻の誘惑とその娘との駆け落ち」というあらすじだけ聞くと「なんのこっちゃい」という感じだが、「ベトナム戦争の映画」と考えると全てが腑に落ちる。ベトナム戦争には一言も言及されず、アパートの大家が放つ「扇動者は嫌いだ」というセリフに暗示されるに過ぎないにも関わらずである。
主人公ベン(ダスティン・ホフマン)が、華々しい経歴と成果を残して大学卒業するところから映画は始まる。彼は、その華々しい栄光にも関わらず、明らかに不満足である。原作ではどうなのかわからないが、映画では、彼が童貞であるということに、大学卒業にあたっての戸惑いの一端を担わせているように思われる。原題the Graduateは「卒業」ではなく「卒業生」であると思う。ベンは「卒業生」ではあるが、卒業後の道をまだ見出していない。そして「童貞を卒業」してもいない彼は「卒業生」として胸をはれてもいない。
『卒業』は、しばしば童貞映画と理解されることもあるようだが、この童貞性は、映画中盤で克服される(「童貞の卒業」)ものであるし、全体のテーマではない。
冒頭から、「華々しく『卒業』したとて、親たちのように空虚な英華の世界に参入することに何の意義があるだろうか」という問いが、言葉には出されないまま冒頭に繰り返し現れる。これらのシーンはどちらかといえばコミカルであり、お祝いの余興として、自邸のプールにダイビングする場面では、ベンは両親たちの歓喜の声とは裏腹に、ダイビングスーツの中で息も絶え絶えに呼吸している。彼に向けられる「優秀な卒業生として成功への道が約束されましたね、そんな君と仲良くしたいのだ」というメッセージに強い嫌気を表明していく。
ここには明らかな反抗への意志がある。明確にオルタナティヴを示すことは全くできないが、大人たちの世界にそのまま入ることなどしないという形での反抗である。どういう方向に向ければ良いのかがわからない反抗の気分が人妻の誘惑にのっていく。最初誘惑された時ベンは、これが社会的に許されないことだから、ということで拒絶して自宅へと逃げ帰っていた。誘惑に乗るのは、大人の社会に参入することの意義が失われていたからだった。そして、映画では語られないが、おそらく当時この映画に若者がライドできた要素として、戦争が起こっている一方で、既存の社会でヌクヌクと成功することは決して良しとはできないという義憤に満ちた葛藤が、ダスティン・ホフマンに感じられたことが大きいのではないか。こう見ていくと、山田玲司のニューシネマ=ベトナム戦争映画というテーゼがあながち間違いでないと思うわけである。
もちろん、『卒業』はベトナム戦争の映画ではないが、体制への異議や苛立ちが基調となっている限りにおいて、ベトナム反戦世代がライドできる作りになっている。そして、この映画では、この苛立ちが完全な無力感や挫折に至るのではなく、反抗に未来を約束しないとはいえ、既存の誤った秩序からの脱出の希望を肯定する形になっている。
『卒業』は、ロマンティックであるよりアイロニカルなコメディ的要素の方が強いと思うが、ラストの方のシーンでベンの叫びを聞いて上げられるエレインの顔が神々しいほどにロマンティックであると思う。ここからの展開は、ネタ的にも用いられているが、例えば『愛のむき出し』のラストシーンはおそらく『卒業』なしにはなかったものではないかと思われた。
音楽はバーズかと思って聞いていたが、サイモンアンドガーファンクルだった。非常に印象的な音楽。