メナーデのドイツ映画八十八ケ所巡礼

メナーデとは酒と狂乱の神ディオニュソスを崇める巫女のことです。本ブログではドイツ映画を中心に一人のメナーデ(男ですが)が映画について語ります。独断に満ちていますが、基本冷静です(たまにメナーデらしく狂乱)。まずは88本を目指していきます。最近は止まっていましたが、気が向いたときに書いております。

audibleはしっくりくる。又吉直樹『劇場』を聞いて。映画との比較も。

最近audibleを使い出した。

観たい映画も読みたい本もたくさんあって、netflixなんかも入って観たいが、時間は限られている。皿を洗いながらなんとなく本を読めたらというのはとても魅力的だった。

 

子供の頃、寝るときにカセットテープで、児童文学の朗読テープを聞いていた時があった。

芥川の「蜘蛛の糸」とかが入っている『赤い鳥』名作集と、宮沢賢治の童話や『風の又三郎』など少し長いものを聞いていた。大抵一本聞き終わる前に寝てしまうのだが、全部聴き終わって無音になると、なんか変な感じがしながら、少し起きていた。

父親が買ってきていたテープはたまに増えていて、何か性的なニュアンスもある、当時としてはよくわからないが、何か「穏やかではない」ことが語られていることだけはわかる話もあって、妙な気分にもなった。

 

といった背景もあったので、個人的には朗読を聴くのはとてもしっくりくる。

 

最初は、話題の本で読みたいけど、長い本をということで『サピエンス全史』を聞いた。

これは想像力が人間の文化や歴史の形成に果たす役割を論じるところが大変面白く、聞いて良かったと素直に思えた。例証的に入るエピソードがくどかったりする部分は、気が利いてるようでダラダラしてるので若干イライラしたが、毎日皿を洗ったり洗濯物を干す結構長い時間を楽しい時間にしてくれた。

 

audibleに登録すると、無料で聴ける作品というのもあって、月間プッシュみたいなやつがあった。2020年12月は『人生は楽しいかい』といういかにも自己啓発っぽいやつで、しばらく放置していたのだが、まあどんなもんかと思って聞いてみた。最初の導入の章がちょっときつかったが、次第に「システマ」の話だとわかって、ワクワクした。システマはロシア特殊部隊の格闘技術で呼吸法を重視するらしい。システマ芸人のネタを昔見たことがあって、「アレか!」と妙に納得した。

自己啓発系の作りだが、システマのエッセンス的なものはわかった気がするし、呼吸を意識するというのはすぐに実践もできて、実際役にもたつ(聞いただけの真似でも歯医者での恐怖や対人関係の緊張を呼吸でかなりコントロールできるように思います)。

 

本だと、あえて手にとって、こちらから読んでいこうとしないといけないが、聞き流しから始めると、あえては手に取らないものも、まあ聞いてみようかという風に受容できるので、出会いがあるなというポジティヴな感触を受ける。

 

その流れで次の月に無料プッシュされていた又吉直樹の『劇場』を聞いてみることにした。

又吉は「ピース」というコンビで出ていた吉本芸人で2015年に『火花』で芥川賞を受賞している。彼についてはたまにテレビ番組で見たことはあったが、ネタは知らない。風貌から「シュール」な感じなんやろなあとは思って気にはなるが、なんか面白いことを言っていた記憶が全くないので、嫌いではないが、一体なんなんやろうというような曖昧な印象を持っていた。ただ、伝え聞く情報からして、実際本はすごい読んでるんかなとは思っていた。

とはいえ、出版業界と文学の停滞をなんとかするための話題作り的受賞なんじゃないかとしか思っていなかった。

だから、最初は特に期待もせず聞き出したのだが、これがなかなかストレートに心に響くものだった。純文学特有のダラダラをよしとせずに、興味をひく展開、興味を途切らせない転換を意識した構成になっている。そして、ところどころに挟まれる印象的な言葉遣いがズシリとくる感じが良い。特に第二章での、恋人との些細な幸せを感じる場面や、同級生となんとなく心が通じた時の淡い感動のようなものを描き出す場面の眩しさが途方もなく懐かしい。世代が大体一緒なのもあってか、大変懐かしい感じを覚える。それは既視感というのではなく、あのとき感じたものはこういうものだったということを再認識させてくれるようなもので、忘れていた感覚を呼び覚ますようなものだった。だからそれは、「新しい」ものでは多分ないのだが、ある種の普遍的な感覚とその記憶を的確に捉えたもので、その捉え方の的確さが、少なくとも私にとってはストレートに的を射抜いたような感じがあった。

 

映画版との違い

『劇場』については、映画化もされている。小説の方が、内面の独白が綿密になされる分ドロドロが強く、映画は俳優がキレイなこともあってさらっと見える。ただ映画も本質はきっちり拾っていて良い。核にあるものがしっかりとあるので、どっちから入ってもいいのだと思う。

 

おそらく一番違うのが劇団「まだ死んでないよ」の「田所」に会う場面で、小説と違ってライバル演出家の「小峰」にも会う設定になっているところ。小峰が、永田に「いつかまた、舞台やってくださいね、見に行きますんで」と声をかけるところ。そして小峰が自分の劇団の名前を「まだ死んでないよ」です、というところ。小説でもこのライバル劇団は、単なる敵ではなく、ある種主人公永田の鏡になっている。どんなに腐って、ダメになりそうになっても「まだ死んでいない」という一線だけは保っている主人公が、もしかしたら達成しうるかもしれない成功を劇団「まだ死んでないよ」は体現している。死んでいなければ、いつか蘇って、輝けるかもしれない・・・その希望をライバルの姿の中に見出す構造になっている。実際永田は「まだ死んでないよ」の講演で涙する。

もう一個大きく違うのが、青山とのやり取りの捨象。これはまた書く。

 

主人公の「まだ死んでない」がゆえの魅力

主人公の魅力(彼は現状明らかにダメ人間である)は、現状ダメ人間だとしても、自分の可能性を信じているところにある。多くの人間は、「現状で証明できていない可能性」を信じることを恥ずかしいこと、「イタイこと」だと考える。だが、永田はイタイことを恥じつつも、痛みを抱えた上で、可能性にかける。現状では、才能が足りず、全く上手くいかず、サキに甘えるばかりのダメ人間である。だが、そのことを自覚しつつ、現実に軍配を上げずに、可能性に向かおうとするところである。

 

ジェンダー的観点

サキの青春と若さの幸福を共有しつつ、それを何にも結実さえ得なかった点で、結果永田はサキに対して非道とも言える仕打ちをしたことになっている。サキのキャラクターを含め、ポリティカル・コレクトネスおよびジェンダー的な観点から言うと大いに問題はある。だが、小説では、そういった観点への反論も入っていて、どちらが正しいかわからない形にしていて、その辺ギリギリのバランスをとっている。

 

ジェンダー的には非常に古い。個人的には『赤色エレジー』から一歩も進んでおらず、あえてそれを反復しているのではないかと思われる。又吉は『赤色エレジー』を愛読書に挙げているので、この見方はおそらく的を射ていると思う。

 

古臭いわけだが、ニュースタンダードに照らすと、母親世代の価値観が救われないと言う視点はそれ自体重要な視点だと思う。

 

以下、各章についてひとまず書いたものを記しておきます。

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第一章

主人公は、冒頭では、ほとんど気狂いめいていて、中学校のクラスに一人か二人くらいいた、正体不明の全くわけのわからないような輩を思い出させる存在である。しかし、どうしていいかわからない周囲や社会との折り合いのつかなさを抱えたことがある人間であれば、奇妙な親近感を覚える人物だと思われる。

著者が又吉直樹であるということはこの作品の一つの強みである。情熱を傾けながら成功を望んで何かに打ち込んでいる人物が出てくるだけで、具体的にそれをほのめかすことなしに、「彼が売れなかった頃に考えていただろうこと」をこちらに想像させられるというのは、彼の強みだろう。例えば次のような読者に想像と共感を呼び起こすことができる。

読者の一例:小説の主人公永田同様、自分にそれなりの自負があり、しかし明確な成功を得てはいない、ある程度折り合いはつけているにせよ、自己評価あるいはあるべき自分と社会的な評価あるいは現状の自分が一致していない読者、彼は例えば次のような考えを抱く。

 

「又吉はテレビに出て、皆に知られ、かつ芥川賞受賞作家だ。自分は彼の何がすごいのか知らないが、少なくとも世間的にみて彼は成功している。テレビなどでそれを知っている自分は、彼のことをそれほど偉いとは思っていない、というのは、自分もそれなりに自負を持ち、世間的な成功では及ばないかもしれないが、別にそれを恥じず、その意味では又吉に対して劣等感も抱かない。とはいえ、比較すれば明らかに又吉の方が華々しい。その又吉が書く気狂いじみた危うい主人公。自己評価と社会的成功が食い違い、それに狂気じみた劣等感を抱きながらもがく主人公の姿は、「いつか日の目をみるだろう自分」の現在や過去とどこか重なってくる。こうした主人公を書いている又吉は、おそらく自分と同じような問いをかつて抱えたことがあっただろう。そしてこの問いを物語として、作品として、主人公をはじめとした人物のドラマとして再現し、多くの人に問いかけている。「問い」を、自分に再び突きつけている又吉は、少なくとも自分と同じ境遇にかつてはあった。その又吉が、ある意味読者である自分のことを書いている」。

 

思想書でも小説でも「自分のことが書かれている」と読者に一片でも思わせることができれば、それだけでその作品は少なくともその読者にとって大きな価値を持っている。テレビに出ている芸人という又吉の顔は、かつてはテレビに出ずになんらかの下積みや苦労、苦闘をしていただろうことを読者に想像させる。この想像力の作用を、又吉は結構うまく使っているのではないかと思う。

 

第二章は端的に幸せである。女性の描き方はどうなのかというところはある。こんな女神がいていいのか?女性であれば、これをどう思うのか? といった疑念は湧いてくるが、とにかくこんな幸せがあっていいのかと思うほど、愛おしい場面が続く。このあたりも、後の展開を考えると割ときっちり構成されているようで、技量を感じさせる。

恋人とともに作り上げた舞台が成功していくのは、本当に夢のように幸せを感じさせる。ささやかながらも、白々しいまでに幸せな、小さな成功が語られるとき、聞いていて、本当に嬉しくなってしまう。

 

それゆえ、次の章で、成功への道が怪しくなり、二人の関係を重苦しさが侵食してくるところは、本当に辛くなってくる。恋人サキは純真かつ天真爛漫だったのだが、主人公の鬱屈の影に侵食されて、少し暗い部分が生まれてきている。不安を隠しながら恋人を傷つけないように振る舞うことが主人公を傷つけ、主人公はサキに八つ当たりもするのだが、この時のサキの健気さと主人公ナガタのダメさ加減の描写もとても上手い。特に新鮮な話ではないのだが、主人公の一挙手一投足は、既視感として凡庸に映るよりも、「これはやっちゃいけないやつだ」という形で描き出され、息を呑んでしまう。文豪の名前をつけたサッカーゲームのプレイなど、やや軽めのエピソードでまとめることで、重苦しい真面目さに耽溺しないところもうまいと思う。

 

「現実」との関わりが出てきてからの焦燥の展開は『赤色エレジー』を思い出させる。このあたりの描写も、非常にうまいと思う。『赤色エレジー』を思わせるくらいだから、特に新しくはない。だが、私は『赤色エレジー』のことを思い出すときは、必ず心が揺れ、涙も流れる。赤色エレジーはたかが漫画であり、たかが物語だが、とても心に突き刺さる。その突き刺さる感覚と劇場は共振する。私にとっては赤色エレジーなのだが、別に赤色エレジーでなくても構わないだろう。ベティ・ブルー、愛より強く、なんだろう? とにかく、何か強烈な記憶と結びつくのではないだろうか。幸せな世界で葛藤なく幸せでありたいのに、やはり現実とも向き合わなければならない、という困難を抱えたことがある人であれば、他人事とは思えない話である。

 

野原のキャラ設定もいい。今は会わないが、学生時代の一時期多くの時間を共有した友人が浮かんでくる。そう言った友人の思い出は全ていい思い出になっている。いい思い出のみに昇華された友人野原は、その意味で既に物語的存在であり、実際小説中では、野原によって何か現実が突きつけられたり物語が駆動することはない。ある種そういう存在でしかないのだが、実際に「いい友人」の記憶はそういったものとしてあるように思う。そういういい友人の理想形が野原である。こいつの実体は不明だが、彼は間違いなく「いい奴」である。

 

彼の存在感がサキと反比例するように後半消えていくのは、やや勿体無い感じがするが、最後まで読んだ上で言うと、やはりサキとの葛藤がこの作品の肝なのだろう。

 

サキに関しては、最初のうちは無垢な女神として現れるが、結末に近づくにつれて一人の人間として浮かび上がってくる。サキの人物造形はどれくらいリアリティがあるかは少々疑問だが(おそらく女性であればかなり引っかかる)、個人的印象としては、こういう女神的女性はたまにいるように思う。

 

永田は、あるべき自分と現実の自分との葛藤、あるべき自分へと向かっている自分の姿を他人にも共有して欲しがっているが、客観的には、そこへ向かいきれていないという後ろめたさに苛まれる。こういうあり方は、自己評価とプライドばかり高いが、現実にはそれに見合う努力をしきれていない多くの人間にとってリアルである。だが、そうした人間たちが主人公永田に共感できるのは、現実にはそれに見合っていないのは認めざるを得ないが、それでもなんとかしようとする気概のかけらを共有しているからである。

サキとの舞台での脚本に、サキが記していた「永くんすげえ」を見たときに、永田がいう、「全然すごくねえよ、こんな風になってしまったよ」という侘しいセリフ・しかし、そのあとの展開から窺えるのは、彼は少なくとも「まだ死んでいない」ということである。

サキと二人で幸せになることはできなかった、男女は別れざるを得ない。だが、二人が幸せになるヴィジョンは、少なくともそのヴィジョンはまだ死んでいない。

ヴィジョンが死んでいなければ、そして、そこへ向かおうとする気概のカケラが残っているのであれば、いつか何かが生み出せるかもしれない。

 

そのような微かな希望を描くこの作品は、辛さや不甲斐なさと同時に、読者を励ます力を持っている。少々甘やかすような素振りもあるが、それでも、次に向かうための慰めとして肯定できるものではないかと思う。 

 

ラストについて

小説版と映画版は基本的に同じ。

二人で色々話し込みながら夜中までかかって作った猿のお面が出てくる。

小説は、作品全体の筋をまとめつつ、サキとの関係が単なる破綻ではなくて、笑顔で終わったということで上述の微かな希望を感じさせて終わる。

映画版は、基本的には一緒だが、映画ならではの形で、「劇場」へとさらに展開する。観客としているサキが「ごめんね」という形にしている。舞台はおそらく最初のサキと一緒の公演である。二重性は小説でも十分感じられるが、わかりやすい、かつ色々多層的な分想像の余地はさらに広いのではないかと思われる。

 

映画は、映画ならではの表現も活かしつつ、ドロドロしすぎる部分をサラッと流すことで、より多くの人に受容することを可能にしている。その意味でよくできている。

 

映画にないものとして最後に一つあげると、サッカーゲームで選手に文豪の名前をつけて、ゲームの中で小さな全能感に浸りながら焦燥するシーンである。このシーンが一番「又吉らしい」感があるので、映画だけ見た人はぜひ小説も読んでください(audibleでいいと思いますが)。

 

audibleの朗読は豊原功補。抑えめで、暗い部分が際立って良い。暗さを前景とするので、ニギヤカシの部分の辛さも際立って良い。関西弁はしっくりくるのかはよくわかりませんが、非関西人としては問題なし。