メナーデのドイツ映画八十八ケ所巡礼

メナーデとは酒と狂乱の神ディオニュソスを崇める巫女のことです。本ブログではドイツ映画を中心に一人のメナーデ(男ですが)が映画について語ります。独断に満ちていますが、基本冷静です(たまにメナーデらしく狂乱)。まずは88本を目指していきます。最近は止まっていましたが、気が向いたときに書いております。

『屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ』(ファティ・アキン監督作品)。(『ジョーカー』に不満のある人はぜひ観てください by 花沢健吾)

f:id:callmts:20200507202323j:plain

映画チラシ

久々に映画館に行った。観たのはドイツ映画『フリッツ・ホンカ  屋根裏の殺人鬼』。客は数える程で4人・・・。「楽しい」とは言い難いが、ひたすら観入ってしまう110分だった。映画館を出た後もモヤモヤして色々考えさせられる。観客に間違いなく思考を促す作品であり、その意味で間違いなくいい映画である。

 

作品情報

『屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ』 

2019年ドイツ映画 原題 „Der Goldene Handschuh“

ファティ・アキン監督

ヨナス・ダスラー、マルガレーテ・ティーゼル、カーチャ・シュトゥット他出演

110分

日本公開2020年

 

 

 

1 映画の紹介(ネタバレなし) 

フリッツ・ホンカとは・・・

フリッツ・ホンカはドイツの犯罪者。映画を観るまで知らなかったが、その筋(猟奇殺人、シリアルキラー)では有名な人物らしい。1970年代に複数の殺人を行った。交通事故で鼻を砕き、後遺症が残った。

f:id:callmts:20200513232301j:plain

本人写真。

 

実話に基づく

本作は、数年前に出版されたホンカについての小説にインスパイアされて撮られている。小説は読んでいないので比較はできないが、監督のアキンの発言では小説は殺人者への同情を呼ぶ点が特徴的とのこと。映画は、同情よりドライな理解を引き起こすものになっている。

ホンカの犯行についてはすでに知られている。それゆえ、映画は「誰が犯人か」「誰が殺されるのか」といったことについては、犯行記録に忠実なものになっている。

映画が力を入れているのは、「誰が」「何が」ではなく、「どうして」犯行に至ったのか、「どのように」殺人がなされたのか、という過程の描写である。 ホンカが何故激昂し、何故殺すのかといったことが理解できるようになっている。観客はホンカの行動を理解するが、同情はしないだろう。

ホンカの部屋については警察の証拠写真に忠実に再現されている模様。

f:id:callmts:20200513063809j:plain

殺人鬼ホンカの部屋。比較的整っている状態の時。多数の人形と壁一面のヌードポスター。テーブルには常に強い酒。パンフレットより。

 

特殊メイクで演じられたホンカ 演じるのは23歳 ヨナス・ダスラー

犯行時のホンカは30代半ばを超えていたが、ホンカを演じるのは23歳のヨナス・ダスラー。注目の若手で爽やかなイケメン。見終えるまで20代が演じているとは全く思わなかった。特殊メイクはうまくいってます。

f:id:callmts:20200513064716j:plain

パンフレットより。

 ファティ・アキン監督作品

監督ファティ・アキンはトルコ系ドイツ人で、2000年代からドイツ映画を牽引し続けている。

デビュー当初しばらくは、多文化間の葛藤や越境をモティーフとする作品が多かった。2000年代の代表作は『愛より強く』『そして私たちは愛に帰る』『ソウル・キッチン』。

近年は、第一次大戦時のトルコによるアルメニア人虐殺をモティーフとした『消えた声がその名を呼ぶ』や、ドイツのネオ・ナチによるテロへの批判意識に満ちた復讐劇『女は2度決断する』など、歴史、政治とリンクした映画が増えていた。

前作の『女は2度決断する』では右翼テロの被害者家族が主人公であり、彼女の復讐劇になっていた。本作は、反対に加害者であるフリッツ・ホンカを執拗に追う展開の映画になっている。作品ごとに作風を変え、新境地を切り開いてきたアキンは、本作でも新たな境地に達している。

 

本作のテイスト

スプラッター映画でありながら、スプラッター的派手さは皆無・

社会派といえば社会派だが、メッセージの表明場面は少ない。

 

2 考察(ネタばれあり)

不能者」の殺人

ハンニバル・レクターをはじめとする華麗なる猟奇殺人者は、殺害の場面で最強感、全能感を画面に露わにする。実際にあんな殺人はほとんどないだろうなとこの映画を見てつくづく思う。

アル中、ブサイク、インポ、コミュ障、部屋が臭い・・・そんな男が本作の主人公フリッツ・ホンカである。ホンカの殺人は計画性も芸術性も皆無。殺人のきっかけは怒りである。しかも「勃たなかったこと」を嘲られたことへの怒りを始め、不能感、劣等感に満ちている。

レクター的殺人には「ヤバイ=怖い=スゴイ」という刺激があって息を飲んでしまうが、ホンカは「ヤバイ=近寄りたくない=マジか・・・」となって、一瞬飲んだ息が深い長い溜息に変わってしまう。

原タイトル『黄金の手袋』

本作の原題は„der goldene Handschuh“=the golden glove=「黄金の手袋」である。「黄金の手袋」とは何かというと、主人公にして殺人鬼のホンカの行きつけの酒場の名前である。被害者は皆、ホンカとこの酒場で出会う。本作の表の主人公はやはりホンカであるが、「黄金の手袋」というタイトルが示唆するように、そこで酒を飲んで酒に飲まれている彼女たちの存在が映画の本体とも言える。

ホンカと同様、被害者達もほとんどアル中である。彼女らは、若い女に酒を奢ろうとして鼻で嘲笑われたホンカが、最後に行き着く女である。ホンカ事件のまとめ記事などでは彼女らは「娼婦」とされているが、飾り窓を彩る着飾った娼婦ではなく、酒飲みたさに見るからに危ないホンカについて行ってしまう中年女性達である。

 

一杯の酒につられてホンカの屋根裏に入り込み、その後一時彼と同棲することになるゲルダは、ホンカと出会う前からすでに人生に期待を失っている。もはや「自分を大事にする」ということをしなくなった悲しい目をした中年女性は、ホンカの狂った発言(「お前の娘を連れてこい」)や契約書(「ホンカ氏の言うことをなんでも受け入れる」といった主旨)の異常さにもあまり反応を示さなくなっている。

 

f:id:callmts:20200512005035j:plain

ホンカの家にきたゲルダ.

ゲルダを演じるのは、オーストリアの女優マルガレーテ・ティーゼル。オーストリアのウルリヒ・ザイドル監督の『パラダイス  愛』での主演が有名。本作では、誰にも顧みられず、理想も希望もなく生きている人間の虚ろな目の演技がすごい。

 

映画本編でも触れられていたと思うが、ホンカの被害者4人のうち3人に関しては殺された後で捜索すらされなかった。顧みられず、行き場もなく、酒を飲む他ない被害者達の姿を克明に映し出すことに映画は力を入れている。

 

「黄金の手袋」とは無縁な「普通の若者」

普通のスプラッター映画であれば、被害者はキャンプやドライヴで浮かれている若い男女であり、恐怖のクライマックスを若い女性の叫び声が彩る。本作の主人公ホンカの被害者は全員50代であり、その意味で彼の殺人にはスプラッター映画となるための「フック」が欠けている。アキンはそこを上手く処理していて、スプラッター風の色気を作り出すために、高校生男女を1組用意している。宣伝写真にも写っている少女のことをホンカはホットドッグスタンドで偶然見かけ、その白い肌に妄想を膨らませている。

この高校生の少女が肉感的でコマーシャル映像でもよく出てくるのだが、彼女の存在は本作を商業映画としてギリギリ成り立たせるためのギミックである。映画においてホンカと彼女は結局ほとんど接点がないままに終わる。実際のホンカもこうした少女との接触はなかったと思われる(ホンカはフェラチオの際に噛まれるかもしれないという恐怖心を抱いており、入れ歯の女性を好んだという)。

f:id:callmts:20200513062841j:plain

ホンカの妄想中の少女、生肉を喰らっている。映画パンフレットより。

映画では、彼女と、彼女の友人になる少年(ファティ・アキンの前々作『50年後の僕たちは』で主演の・・・が演じる)だけが、普通のスプラッター映画の被害者となりそうな人物である。だが、彼らは結局のところホンカとは無縁の普通の人々である。

ホンカが巣食う「黄金の手袋」は若者とは無縁な酒場で、常連は、ホンカやアル中の中年女性たちの他、元ナチス親衛隊の巨漢や、ホンカをおだてて酒を奢らせているうだつの上がらない中年男たちである。高校生二人は、こんなところに本来来ることはないのだが、少年の方が好奇心で「黄金の手袋」に遊びに来てしまう。

戸惑いもありつつ少年は若いが故に、ここが自分が来るべき場ではないことを十分に認識しない。トイレでたまたま連れションとなった元親衛隊(SS)にフレンドリーに話しかけた彼は、小便しながら話しかける無礼に怒った元SSに背中から小便を浴びせかけられる(このシーンは映画のクライマックスの一つである)。

ショックで個室に閉じこもっている間に連れの女の子がホンカの魔の手に・・・と思いきや、結局普通の高校生の彼女には何も起こらない。これらのシーンは、殺人者も被害者もあくまで場末のガラの悪い酒場「黄金の手袋」の中にいて、普通の人々には無縁であるというメタファーになっている。観客にスリルを与えつつも、あくまでダメ人間が集う安酒場「黄金の手袋」が作品の舞台なのだということを示すいい演出になっている。

 

「普通と地続き」でありそうで、「普通の人」には無縁の世界

映画パンフレットを買ったのだが、有名人・文化人のコメントはもっぱらホンカに集中している。その際やや違和感を禁じ得ないのが、ホンカへの親近感、同類感、共感をほのめかすコメントである。

確かにダメっぷりは、普通の人と地続きなところがあり、劣等感からまともな付き合いをできないなど、了解可能な部分もある。個人的に「意外と普通だ」と思ったのは、真っ当になろうとして働いたビルでのホンカの振る舞いである。気さくに社交的に挨拶してくれる中産階級の社員達の中でのホンカは言葉遣いも合わせて、一応まともにやっていくのである。ビルの清掃員に恋もするが、彼女への態度も酒を飲んでしまうまでは、やや挙動不審ながらもそれなりに紳士的であり、「黄金の手袋」で引っ掛けた女達への侮蔑的・暴力的な態度とは対照的である。綺麗な女性、まともな女性には、劣等感から大胆にはなれないが、どうでもいい女にはぞんざい、といった態度も、了解可能な範疇のものである。

だが、酒場「黄金の手袋」の世界は、作品内の高校生たちの行く場所でなかったように、ミニシアターに本作を観にくるようなそこそこ文化的な観客達にはほとんど無縁の世界である。この酒場に集う人々は、「普通の人」が接触することのない人々である。

普通の人であれば「私の中のホンカが」みたいなことは考えもしないし、「共感」などしない。「黄金の手袋」的な酒場で酒欲しさに変な奴についていくことのない「あなた」の隣には、ホンカがいるはずもない。

 

 酒場の魔力、普通への憧れ

ホンカは2度目の殺人の後、一度真っ当な生活に憧れて酒を絶って「黄金の手袋」に近づかないようにする。彼は快楽殺人者ではなく、酔っ払った勢いで自分がコントロールできなくなって怒りに任せて殺してしまう男であり、断酒中の警備員生活の中では割とまともである。うっかり飲んでしまって失敗し、また酒場「黄金の手袋」に帰ってきて、またホンカは「やって」しまう。

パンフレットでもう一ついただけないと思ったのが、ホンカや娼婦たちが「戦争」の産物だったのではないかという趣旨の文章である。ホンカがコミュニストの息子であり、父がコミュニスト故にナチス政権下で囲った不遇が、ホンカにも影響しているという話や、映画でも語られるところだがホンカの犠牲者となる女性が、かつて収容所で慰安婦をさせられていたことなど、確かに戦争の影響は無視できない。とはいえ、映画のポイントは「みんな戦争が悪かった」というような考えにはない。

確かに「黄金の手袋」に集う人々は少なからず戦争の影響を受けて、ここに行き着いている。だが、映画では、なぜここに行き着いたかには重点はない。ここに行き着いてしまった以上、ホンカのように自分をコントロールできなくなって人を殺すかもしれないし、あるいは殺されてしまうかもしれない。ここに行き着いてしまった以上、人は殺さないにせよかつての栄光の影に、他人に堂々と小便を引っ掛けるくらいのことは平気で行ってしまうかもしれない。

 

このような人々が存在したこと、その中で目を覆うような事件があったこと、そして被害者が社会からほとんど忘れられていたが故に、事件の発見も遅れ、ホンカの凶行を止めることも遅れたことが、この映画を見ると強く伝わってくる。この作品は、「普通の人」にはほとんど無関係な「黄金の手袋」の世界を突きつけて、一体あなたはどう思うか? と挑発しているように思われる。狭い意味での共感を呼び起こすものでは決してないが、観客が理解できたとすれば、その世界の見え方を確実に少し変える映画である。

 

周辺情報から考察 

ジョーカーに不満のある人は・・・ 花沢健吾のコメントに寄せて。

 タイトルにも挙げたこの文句は、漫画家の花沢健吾が映画のパンフレットに書いたイラストに 付記されているものである。

『ジョーカー』は、少々引っかかるところはあったが「不満」はなかったので、この文句をみて少し考えた。花沢氏の真意はよくわからないところもあるが、彼の漫画にも照らして考えると、腑に落ちる部分もある。以下、ジョーカーとホンカについて、花沢発言をもとに考えてみたい。

 

『ジョーカー』はみなさんご覧だろうか? 誰がみても結構面白いと思うので観ていない方は是非観て、それから読んでいただければ幸いです。

ネタバレしても面白いと思うので、気にしない方は観てなくても読んでいただければと思います。

ジョーカーはバットマンシリーズの悪役のピエロ。ピエロはどうでもいい道化の時もあるが、世界の悪を一手に担う恐ろしい存在でもあり得る。

バットマンシリーズは1960年代の映画第1作では、漫画原作のネタ映画的な能天気でビザールな作風だったが、ジョーカーが暗躍する『ダークナイト』などでは「悪の哲学」を紐解くような内容になっていたりして、振幅が激しい。『ジョーカー』は『ダークナイト』のジョーカーがいかにしてうまれたかといった内容。

ジョーカーは、もともとコメディアンを志望していた。不器用で、精神的にも不安定なところはあるが、心優しい青年(30代?)だった。ジョーカーは真面目に頑張っているが、ある日地下鉄で、金融エリートたちが若い女性にゲスな絡み方をしているのをみて、一人を殺してしまう。何も殺すことはない・・・とはいえ、観客はこのクソエリートがゲスであることを知っており、ジョーカーの行為が完全に間違ったものとは思わないだろう。映画でもジョーカーの犯行は「クソエリート」への反逆として認められ、社会的な話題になる。間は省くが、コメディアンとしてテレビに出演することになったジョーカーは、そこで売れないコメディアンである自分をあざ笑っていた番組司会者を撃ち殺すと同時に、自分が、クソエリート殺害の犯人であると電波に乗せて発信する。このメッセージは街の不満と共振して、大きなデモ→暴動に展開し、ジョーカーは、悪のヒーロージョーカーに変貌を遂げる・・・といった話である。

 

大変スリリングでジョーカーにも好感を持ちながら見たのだが、途中からずっと『タクシードライバー』と比較していた。そこでは仕事をしながら街の平和を案じている一人のタクシードライバーが、自らの「正義」の心を妄想的に肥大化させていって、「悪」とみなしたものに妄想的な「正義」の鉄槌を下すに至るまでの狂気が描かれていた。

 

タクシードライバーは1976年の作品だが、最近まで世界のモードはこのころとそんなに変わっていなかったのではないかと思う。つまり、「主観的な正義の追求は、世界全体から見ると大抵の場合妄想的で愚かで危険だからやめておけ」というメッセージが主流だったように思うのである。

 

『ジョーカー』に戻るとジョーカーは主観的には自分の夢を追っていて、そんな自分の努力を嘲笑う化のような存在に対して虐げられた末に牙を向いている。主観的には彼は正しい。『タクシードライバーパラダイムであれば、彼の正義は妄想として「終了」のはずだが、『ジョーカー』では、むしろ彼の妄想に世界が共振していくのである。これを見たとき、世界のモードが変わったのかもしれないと痛感した。

 

ここで話を花沢とホンカに戻す。花沢は『アイアムアヒーロー』が多分最も有名だが、その前に書いていた『ルサンチマン』や『ボーイズ・オン・ザ・ラン』に彼の作品の核がおそらくある(白状するとアイアムアヒーローは最初の方だけしか読んでいない)。ボーイズ・オン・ザ・ランが本記事と関わるが、主人公はうだつの上がらないサラリーマンである。彼が恋した女の子は大変可愛いが、なんかいけ好かないが世渡りもうまくてルックスもまあまあな奴に奪われてしまう。主人公はこいつが実はゲスで最低だということを知り、彼女にそのことを伝えて救い出そうとするが、返り討ちにあって彼女からも嘲笑われる。

しかし主人公は諦めずに、タクシードライバーの主人公が妄想的正義の戦いに繰り出す時にしたモヒカン・ヘアに、自らの頭をカットして、再度いけ好かない奴をぶちのめしに走る。

 

詳細はあまり覚えていないが、こんな話だった。確か、最後までかっこよくはないものの、いけ好かない奴のことはぶちのめしていたはず。だが、いずれにせよ花沢の『ボーイズ』では、「自分の正義」が華々しい英雄物語にトントンとなることは現実には決してありえないという認識が繰り返し示されていた。無様な姿を晒しながら、それでも走るのが現実という感じだったと思う。

 

 

 

 

花沢はおそらく、ジョーカーのように、弱者が華々しくいけ好かない奴をぶちのめす話が成立すればいいが、そんなことは現実にはありえない、という認識を持っている。彼の視点から見ると、ジョーカーの展開はありえない展開である。

それに対して、ホンカはどうか。こちらは、正義がそもそもないが、弱者が弱者を食い物にするという悲惨な構図が描かれ続ける。妄想が正義になる世界の対極であり、ヒーロー的なカタルシスゼロの世界である。そして、花沢的視点からすれば、ホンカの世界は地獄であるが、現実であり、それを正してくれるような正義はないが、ありえない救いを告げる嘘はそこにはない。ジョーカーの世界は地獄であるが、妄想によって反転する世界である。正義のなさに対しては、「クソが!」という不満と怨恨が向けられ、この怨恨が成就してしまう世界である。

花沢の『ルサンチマン』では、ルサンチマンはどこまでいってもルサンチマンでしかないという認識が語られていたような記憶がある。この観点からいってもジョーカーの構成は甘いということになる。それに対して、ホンカのルサンチマンは、より弱者に向けられ、惨めなセックスと殺人に結びつく。怨恨は惨めな連鎖を告げて終わる。こちらのリアルを花沢は肯定したのだろう。

 

ルサンチマン 全4巻 完結セット (ビッグコミックス)

ルサンチマン 全4巻 完結セット (ビッグコミックス)

  • 作者:花沢 健吾
  • 発売日: 2011/02/28
  • メディア: コミック
 

 

花沢本人は多くを語っていないようなので、勝手に再構成してみたが、そんなに間違っていないのではないかと思う。『ジョーカー』と比較するのは、流行っているものへの反感みたいなところもあるかもしれないが、的外れではないと思う。

 

とにかく、ホンカの映画は脳髄を刺激する陰鬱さがあるので、機会があれば是非ご覧ください、