オーストリアの異色監督 ウルリヒ・ザイドル『パラダイス 愛』
ザイドルについて
「オーストリアの普通の人物についてのドキュメンタリー」のような映画をとる。脚本などはあるのだろうが、普通の人の生活を切り取ったような映画をとる。
生活の一断面を切り取ったようにみえるシーンの連続でザイドルの映画は成り立つ。説明らしい説明はなされず、見るものに何の画面なのか、人物たちはどんな関係なのかを読み取るよう要求する。なので、多少敷居は高い。また、大きな出来事は起こらない。
本作『パラダイス 愛』は一人のオーストリアの女性(40-50代くらい?)のケニアでの休暇旅行を追った映画である。題材となるのは「その辺の普通の人」に見えるが、彼女を追うことで、様々なことが見えてくる。
中年女性の休暇旅行
この女性は冒頭のシーンから障害者施設か何かで働いていることがわかる。彼女の「休暇旅行」が曲者で、ちょうど日本のオッさんが東南アジアのどっかに春を買いに行くような旅行なのである。主人公の女性は現地で意気投合した同じドイツ系女性たちともりあがる。欧米のおばさんにはけっこう「バイブレーター」の話をする人がいると思う。「何本もってるか」とか、あけっぴろげである。「中年だから性の話をするのはみっともない」というような「常識」はない。この映画にでてくる女性たちもわりとあけっぴろげである。
日本人もカモにされるが、ドイツ人、オーストリア人もカモである。親しげに何かを売りつけてくるが、騙されないぞと思いつつも、けっこう気分はよかったりする。そういう感じも上手に撮られている。この女性は、騙されないぞ、特に「愛」に関しては騙されないぞという意識は強くみせている。
普通の旅行でたいしたことは起こらないように、たいしたことは起こらないが、小さな喜びと小さな悲惨はあったりする。持てる者と持たざる者、モテる者とモテなき者の間の悲喜劇がここで展開される。個人的に最初ザイドルに興味を覚えたのは、ニュー・ジャーマン・シネマの旗手ファスビンダーの作品に例えられていたからである。『パラダイス 愛』でも人間と人間の間の搾取関係は、たしかにファスビンダーばりに辛辣に示されている。
オーストリア映画の暴露性?
なんでこんな映画を撮るんだろうと思って、オーストリアの人に聞いたことがあるが、「オーストリアはドイツと違って、小国でカッコつける必要がないし、むしろ隠しているものを露呈させるような伝統がある」というようなことを言っていた。フロイトの無意識もそうだ、と。「ドイツにはやはり大国意識があって、それだけに、正しいテーマを背負いがち」というようなことも言っていたが、そういうときの彼は「そういった偉そうな気負いのかっこつけ」とは違う道を自分たちはいくのだという自負も感じさせた。
この話がどれだけ当たっているのかわからないが、ザイドルの映画に関しては妙に納得できる話だった。オーストリアの監督といえばミヒャエル・ハネケだが、ハネケに関してもけっこう当てはまるように思う。
ザイドルは、かっこいいテーマには決してならないような映画を撮っている。この映画も一歩間違うと中年女性を嘲弄するもののようにも見えかねないが、それが目的ではないだろう。「パラダイス」を夢想して散々な目にあうときのあの感じは、必ずしも他人事とは思えない。
『パラダイス』シリーズは三部作で、他には新興宗教信者の女性(本作主人公の姉(妹?))を描いた『パラダイス 神』と、肥満児童向け合宿に参加する少女(本作主人公の娘)を描いた『パラダイス 希望』がある。『希望』もわりと面白い。『神』は素材がちょっと異様でとっつきづらいかもしれない。
『パラダイス 愛』はU-Nextで現在視聴可能。
今まで観た中だとザイドルのベストは『パラダイス』ではなく『インポート・エクスポート』。ヨーロッパの『闇金ウシジマ君』世界をドラマ的要素をそいで切り取ったみたいな映画。