魔女狩り VS 醸し出されるフェミニズム ヴィム・ヴェンダース作品ではあまり注目されない『緋文字』(1972年)を見返す。
1973年、西ドイツ・スペイン映画、原題 „Der Scharlachrote Buchstabe“ (『真紅の文字』)。ヴィム・ヴェンダース監督。ゼンタ・ベルガー主演。
- 1 映画について
- 2 映画の難点
- 3 ヴェンダース版『緋文字』の特色 1926年リリアン・ギッシュ主演版と比較
- 4 ピューリタン道徳の描き方について 原理主義への批判
- 5 醸し出されるフェミニズム
- まとめ
1 映画について
アメリカの作家ナサニエル・ホーソーンのゴシック・ロマン『緋文字』を映画化したもの。『緋文字』の舞台は17世紀アメリカ、清教徒の街ボストン。私生児を産んでしまったために、罪人の章の赤い文字をつけて生きることになったヘスター・プリンの良心と苦悩を描く。この作品は1926年のリリアン・ギッシュ主演をはじめ何度も映画化されている。映画批評家出身のヴェンダースは、少なからず気負って作っただろうことが推測される。詳細は調べられていないが、最初の放映がテレビであり、テレビ用映画の依頼仕事かと推測される。
ヴェンダース自身が、自分が語るべきでないものを扱ってしまったことによる「失敗」とみなしている。https://de.wikipedia.org/wiki/Wim_Wenders#cite_note-7
それもあってか、次のような副次的なところで語られがちな作品である。
・ハリウッドで活躍して「ヨーロッパのセックス爆弾」と称されたセンタ・バーガー(ゼンタ・ベルガー)の再評価につながった作品。
・ヘスターの娘役ロットレンダーと船員役のフォーグラーの場面から、ヴェンダースに代表作『都会のアリス』の構想のきっかけを与えた作品。
個人的にはけっこう好みの作品なのですが、傑作がというとやはりそうは言えないものです。本記事では、何が問題なのかを映画そのものの特徴や見るべき点と合わせて論じます。ネタバレはあまりありません。
2 映画の難点
難点は箇条書きでまとめると以下が挙げられます。
・ 犯罪映画的な謎解き要素を入れたことでスリリングにはなっているが、話がごちゃごちゃしていて、原作や先行作品を知らないと、筋が頭にすんなり入ってこない。
・ ピューリタン的モラルのグロテスクさを強調するつくりになっているように思われるが、その意図がイマイチわからない。
・ 音楽もメインテーマなどとてもいい曲だが、使いどころが、いまひとつ謎。上と関連するが、作品の目指すところが明確でないことと関係する?
これらの難点は同時に特色でもあるので、以下、それぞれ詳しく見ていきます。ネタバレはしないようにしております。
3 ヴェンダース版『緋文字』の特色 1926年リリアン・ギッシュ主演版と比較
例えば1926年のリリアン・ギッシュ主演の『真紅の文字』と比較すると明らかなのですが、ヴェンダース版は推理小説風のつくりになっています。過去に何があったのか、誰が「犯人(ヘスター・プリンと不義を働いた者)」なのかが途中まで伏せられています。これは難点でもありますが、この映画の特色にもなっています。
1926年版では物語が、「私生児」を産むにいたる原因から時系列で描かれるため、混乱がありません。話としても、ヘスターは夫が帰ってこないものと思っていたがゆえの行き違いから「不貞」となってしまったということが説明されています。ヘスター自身もモラルに背を向ける気はもともとなく、「愛した人との間の純愛にもかかわらず・・・」という苦悩の悲劇に仕上がっています。すれ違いゆえの「罪」が悲劇をもたらしたという風に一貫して理解できる作品です。コテコテではありますが、わかりやすいです。
ヴェンダース版では、過去については回想シーンなども入れられることはなく、元夫との関係描写も曖昧です。過去の謎については観客の混乱のもとになっています。ただし、これは意図的なもので、推理小説的な興味をつなぐことを狙ってのことだと思われます。2度3度見ると、伏線的シーンや演技などが入っているのがけっこうよくわかります。ただ、あからさまに推理ものではないので、特に主題化されてはいません。なのでぼーっと見てるとひたすら誰が何なんだかよくわからなくなる可能性があります。
まとめると、ヴェンダース版『緋文字』は、とりあえず話についていくだけでもそれなりの集中力やリテラシーが要求されますが、そういう緊張感が好きな人は好きだろう作品といえるかと思います。
4 ピューリタン道徳の描き方について 原理主義への批判
1926年の方では、キリスト教モラル自体の否定はなされません。ヘスター・プリンの罪をあげつらうのは、ギャーコラ言ってくる自称敬虔な人たちで、かなりブサイクに描かれています。彼女が裁かれるのは律法からはみ出るからであって、心はむしろ美しく、魂の奥底での敬虔さを備えているかのように描かれています。
ヴェンダース版では、ヘスター・プリンの良心をめぐる話は全く削られています。特に半キリスト教的ではないのですが、同じく罪人とされている女性から「サバトの集会」に誘われる場面があるなど、「魔女」との境界にいることが強調されています。娘のパールは子供たちから「魔女」扱いされているので、ピューリタン的偽善には糞食らえみたいな態度が垣間見えます。
この当時のイギリスでの宗教弾圧から逃れたピューリタンたちが建てた街は、政教分離では全くなく、清教徒の清教徒による清教徒のための、宗教的価値観に基づいた統治がなされていたことが映画では強調されています。異教徒や先住民への偏見、「魔女狩り」的糾弾に関してはかなり粗野なものとして描かれます。
ヘスターの元夫は、先住民のところで薬草などを学んだ医者という設定で、劇中で「異教徒」を標榜することもあるように、キリスト教に背を向けています。彼は魔女扱いのヘスターとは今でもどこかで通じ合っているように見えて、1926年版とは違って単純な「悪役」には見えません。
特に反キリスト教というわけではないですが、ヴェンダースが、偏見による支配、あるいは福音派的原理主義的に異を唱えているのは明らかです。
5 醸し出されるフェミニズム
上の場面からも読み取れるように、聖書原理主義が支配するこの街では、女性蔑視が当たり前になっています。ヴェンダース版ではここが強調されています。ヘスターが裁かれているのは、そもそも単に私生児を生んだということだけが理由です。
個人的印象の域は出ませんが、ヘスター親子への街の辛い仕打ちの愚かさを描くことで、ヴェンダースはかすかなフェミニズム的視点を持ち込んでいるように思います。聖書原理主義ほどではないにしろ、当時であればまだシングルマザーへの道徳的な断罪もけっこうあったと思われます。その馬鹿らしさ、愚かしさ、不適切さを、ヘスター親子を通じて示しているような気がするのです。
フェミニズム的視点は映画の結末にもうかがえます。映画では原作の一部を省略して、結末を開いておくことで、ヘスター自身が新天地へ向かいます。
映画ではフェミニズム思想が声高に語られることは特にありません。そうしたら明らかに失敗したと思います。フェミニズム要素を、ゼンタ・ベルガーが醸し出す強さだけで見せたのがいいところだと思います。ヘスターは声高に何かを主張しませんが、偏見に屈しない強さを保ち続けています。彼女は、悲劇のヒロインではなく、また「強い母」でもなく、単に強い存在のようにそこにいます。
まとめ
一つの作品としては、必ずしも完璧ではないと思いますが、とりあえずゼンタ・ベルガーの佇まいを観る価値は十分にある作品です。ヘスターの元夫役のハンス・クリスティアン・ブレヒも腹の中が読めない感じが魅力的です。
あとは、時代物としての魅力も十分です。街の感じ、衣装は同年のヘルツォークが撮った『アギーレ』などに比べるとスケールは小さいですが、閉塞した当時のピューリタンの世界観を伝えるには十分かと思います。
ちなみに音楽は、いいなあと思う曲が多いですが、何の意図でここでこれ? というのがけっこうあります。具体的には最初の裁判で、いきなり大団円みたいな音楽で、謎です。ヴェンダースの映画ではそういうのがけっこうあるので何か意図があるのかもしれませんが、個人的には謎。
U-Next無料会員登録で見れるので未見の方は是非。『都会のアリス』なども見られます。
1926年のリリアン・ギッシュ主演のものは、いけないものかもしれませんがネットで見られます。The Scarlet Letterで検索で。BGM付きサイレントです。