『カスパー・ハウザーの謎』
『カスパー・ハウザーの謎』 1974年、西ドイツ映画。原題 „Jeder für sich und Gott gegen alle“ (各々は自らのために、そして神はすべての者に反対して)
ヴェルナー・ヘルツォーク監督、主演ブルーノ・S。
邦題にあるカスパー・ハウザーは実在の孤児で、その生育環境の奇妙さと謎の死が興味をひき、何度も文学作品に取り上げられている。「狼に育てられた子供」と少し似ていて、人間との交流をもたないまま座敷牢で育った。
監督ヘルツォークが、路上ミュージシャンをしていたブルーノ・Sを主演にして映画化。 このブルーノ・Sは精神薄弱者として精神病院に入れられるなど、カスパー同様少々普通でない。
映画はカンヌで批評家賞を受賞するなど評価された。カスパー・ハウザーについての「謎」は最期まで解かれないが、不思議な余韻を残す作品。映画は、彼について知られた事実をもとに、カスパーの発見から死までを描く。脚色部分も多いが、実際の発言などに基づくものも多い。
本記事では、カスパーについて知られていることをまとめ、ヘルツォークの映画と比較しながら作品の特色を考察する。
1. カスパー・ハウザーについて 事実確認
1-1 発見時
1828年5月26日、ドイツのニュルンベルクの広場で立っている変わった感じの少年を靴職人が見つけた。話しかけると、片言でしか喋れないようだが出身を聞くと「レーゲンスブルク」と答えたという。少年は町の騎兵大尉に当てた手紙を持っており、「ボクハ、ボクノトウサンガソウダッタヨウニキヘイニナリタイ」と話した。自分の名前を「カスパー・ハウザー」と綴ることができた。少々の単語はわかり話すが語彙は限られていた。カスパーは警察の保護におかれた。
1-2 所持していた手紙
匿名の手紙には、カスパーは1812年10月生まれで、日雇い労働者の自分が読み書きとキリスト教を教えたが、ドアから一歩も出さなかった旨が書かれていた。もう一通もっていた手紙(母親が書いたとされている)には1812年4月30日生まれで名前はカスパーと書かれていた。カスパーの父は軽騎兵で死んだと記されていた。二つの手紙の筆跡は似ており同一人物が書いたものと考えられている。
1-3 保護観察期
カスパーはしばらくは監獄で看守に世話されて暮らした。法学者、神学者、教育学者がカスパーの精神状態に関心をもち、調査や言語授業を行った。感覚は鋭敏で筋肉は未発達だった。
最初は半分野生の人間に育てられた野生児かと思われたカスパーだが、話を聞いていくうちに次のように推測された。カスパーは全く一人で、ほとんど光も入らない部屋にとどめ置かれていた。寝ている間にパンと水が差し入れられ、体を洗われ着替えさせられた。深く眠ったのはアヘンをすわされていたからではないかと推測された。玩具としては馬のおもちゃがあり、それを大事にしていた。便は床の溝におかれた器にした。解放される少し前に、読み書きを教え込まれた。「私の父がそうだったように騎兵になりたい」という言葉なども意味もわからず教え込まれていたこともわかった。
ここまでドイツ語版ウィキペディアのまとめ
https://de.wikipedia.org/wiki/Kaspar_Hauser
以下の本で当時の証言、調書記録がさらに詳しく読める。
1-4 ダウマーのもとでの暮らし 教育と学習
当初は歩くことすら覚束なかったカスパーは体力もつけ、また表情も人間らしくなって看守の子供たちなどから言葉も覚えていく。その後カスパーは宗教哲学者のダウマーに引き取られ、教育を受けていく。
上であげたフォイエルバッハ著『カスパー・ハウザー』によると、カスパーは不完全ながら話もできるようになった(一人称の「私」がうまくつかえなかった)。算術や書き方も覚え、自身について書き記すようになった。このことが話題になり、新聞などにカスパーの記事が大々的に出るようになる。養育者=監禁者については憎んでおらず、多くのことを学んだ後は、再び会ったら学んだことを話すつもりだと言っていた。
家族の観念、有機物と無機物の違い、自然物の成長、様々な匂いなどすべてが彼には新鮮な概念だった。
カスパーは色々学んだが、神や教会については学ぼうとしなかった。神の観念を教え込もうとした牧師たちが、神による無からの創造という話をしたが、これを信じなかった。
カスパーは当初大きな学習意欲を見せたが、学校へ通わされるようになると負担が大きすぎたのか、学習意欲は低下した。
2. ヘルツォークの映画の特色
2-1 映画でのカスパー像
まず、大きく違う点は年齢である。カスパーは手紙の内容が本当だとすれば16歳か17歳のはずだが、ヘルツォークの映画では41歳のブルーノ・Sが演じている。この点から、ヘルツォークが厳密に知られている事実を再現するつもりではないことが明らかである。
とはいえ、その他の状況についてはほぼ当時の記録やフォイエルバッハなどによって伝えられた事実を取り入れている。
2-2 実験台としてのカスパー、人間としてのカスパー
映画では、伝えられた事実とは異なる要素が少し組み入れられている。一番目立つのは、市当局がカスパーの保護費用を賄うために、サーカスで働かせる場面である。サーカスでは、カスパーは当然見世物、商売道具として扱われる。カスパーはサーカスに嫌気がさして逃亡する。
これに対して、看守一家やダウマーのもとでは実際の子供のように扱われている。好奇の目にさらされる、実験台として扱われるときのカスパーと、人間的に扱われるときのカスパーを映画では対比的に描いている。
ただし、カスパーに親身なものを善人化したり、反対に親身でないものを悪人化したりといった演出はなく、淡々と描いている。
2-3 文明批判的視点
これは当時の時代背景もあるかもしれないが、ヘルツォーク映画では、カスパーの発言に文明批評的なニュアンスを混ぜている。
上述したように神の観念を信じない場面が出てくるが、既成の常識や制度に素朴な疑問を提示する場面がしばしば挟まれる。
ヘルツォークは、クラウス・キンスキーの起用や小人映画など、俳優も題材も普通ではない人間をテーマにすることが多い。その際、普通でない存在を肯定することで、せせこましい普通の観念の外の領域が開かれる。
カスパーが意外とズルいといった指摘は取り入れられず、純真無垢さが強調されている。学習を放り投げたといったエピソードは、既存の常識批判に読み替えられている。また映画ではカスパーがイマジネーションで物語が頭に浮かぶが、冒頭しか浮かばないという設定があるが、そこに取り入れられているのかもしれない。
3. カスパーの暗殺など残る謎
暗殺者
カスパーは新聞などメディアに取り上げられたことによって、命を狙われることになった。おそらくは監禁者=養育者が自分の罪が発覚することを恐れて行ったことと思われる。1度目は1829年で額に傷をつけられただけだったが、2度目は胸を刺され、これが致命傷となって1833年にカスパーは死んだ。
現場を直接見たものはいないので真実は明らかでないところもあり、当時は狂言自殺説もあったが、刺し傷と近くで見つかった刃物が合致しており、殺されたとみて間違いないだろう。
映画でも暗殺シーンがある。どちらも、知られている事実に近い描写である。最初の犯行時に犯人ははっきり映っていて監禁者=養育者である。致命傷を負うシーンでは犯人は映らないが、監禁者と思われる。
いずれにせよ、この監禁者が何者なのかについては最後までよくわからない。
カスパーの出自
カスパーの出自については当時多くの噂があり、顔つきから、バーデンの皇太子ではないかなどとまことしやかにささやかれたりもしたが、最近の遺伝子調査では違うという判定らしい。いずれにせよ、映画では出自についても踏み入らない作りになっている。
おわりに
ということで『カスパー・ハウザーの謎』が解かれることを期待してみると、なんだか結局よくわからないままで終わることになる。
原題の「各々は自らのために、そして神はすべての者に反対して」も意味深だが、わからないままである。カスパーの語るラクダの話などから解釈できるかもしれないが、とりあえずお手上げである。映画冒頭で洗濯している女が驚くシーンがあるが、そこも何を見たのか不明。調べればわかることもあるかもしれないが、カスパー自身の謎も含め、不明な点がたくさん残る映画である。
また何かわかったら追記予定。
コスチュームや町並みの絵面などはどれも雰囲気があって見ごたえがある。音楽も美しい。
現在U-Nextで無料視聴可能(2020年3月31日まで)。
豆知識集
ロッテ・アイスナーへの献辞
ロッテ・アイスナー(1896-1983)に捧げられている。 アイスナーはユダヤ系でナチス政権下でフランスへ亡命。戦後はパリで映画批評家をしていた。ヘルツォークとは交流があり1971年の『蜃気楼』でナレーターをつとめた。1974年重病にかかった際、ヘルツォークは回復を祈願してミュンヒェンからパリまで徒歩旅行を行う。アイスナーは回復した。1983年に死去。
音楽
音楽はヘルツォーク映画では大活躍のバンド「ポポル・ヴー」のメンバー、フローリアン・フリッケが担当。フリッケはダウマー家にいる盲目のピアニスト役。映画ではカノンなど有名クラシック曲が使われていて、印象的。
ブリギッテ・ミラ
ダウマー家の家政婦役はファスビンダー映画の常連ブリギッテ・ミラ。この映画でもいい味を出している。