メナーデのドイツ映画八十八ケ所巡礼

メナーデとは酒と狂乱の神ディオニュソスを崇める巫女のことです。本ブログではドイツ映画を中心に一人のメナーデ(男ですが)が映画について語ります。独断に満ちていますが、基本冷静です(たまにメナーデらしく狂乱)。まずは88本を目指していきます。最近は止まっていましたが、気が向いたときに書いております。

ダークウォーターズ ・・・ズシンとくる映画

ダークウォーターズ 2019年 アメリカ映画

 

アメリカの化学大企業デュポン社がテフロンなどに使われる化学物質PFOAの毒性を知りながらも隠蔽していことを知った弁護士の物語(実話)。監督はグラム・ロックをめぐる映画『ヴェルヴェット・ゴールドマイン』などで知られるトッド・ヘインズ。ものすごい映画だった。あまり広く公開されていないみたいだが、観れる方はぜひ観てとオススメしたい。日本版のDVDなどは未発売。

Dark Waters [DVD]

 

この記事では、映画のおすすめポイントを紹介したい。

 

1 まず事実として衝撃的。

・テフロン加工を空焚きするとインコが死ぬという話は割とインコ飼いの間では有名な話らしいが、テフロン製造過程にいた人間がガンなどになったり、奇形児を出産していたりといった事実が裁判を通じて明らかになっていくが、この内容だけでものすごいインパクト。

・テフロンはデュポン社の商標。第二次大戦時に、戦車の防水や原爆の製造過程に使われていたフッ素化合物によるコーティングを家庭用に利用したもの。問題になるフッ素系化合物(映画に出てくるのはPFOA)は「フォーエバーケミカル」とも呼ばれるように、分解されにくいので、超高温の原爆製造過程に利用された。

・人体に入っても分解・排出されない点が特徴。精巣や甲状腺ガン、肝臓、妊娠時の異常などを引き起こす。高濃度で被爆すると、明白に有害らしい。

・映画で出てくるので印象的なのは、最初にデュポンを訴える農場主が飼っていた牛の異変。寒々しい地獄のような風景の農場と相まってものすごいインパクト。

「フォーエバーケミカル」の問題については以下も参照してます。

ここでは「PFAS」となっているように、フッ素系の「フォーエバーケミカル」は多数存在。ブックレットでは米軍の消化装置で使われているものにクローズアップしている。

 

2 ドラマとしての面白さ

実際にデュポンを相手に訴訟したロブ・ビロットが主人公なのだが、元々は企業の側を弁護していてデュポンの協力者だった彼が、事実を目の当たりにする過程でデュポンを訴える側にまわっていく過程が丁寧に描写される。「まさかそんなことがあるはずがない」という最初の印象が変わっていくことが丁寧に描かれる。

ポイントはロブが「田舎」(ここが汚染の舞台)出身であることと、「無名大学出」であること。最初は「正義の人」ではなかった彼が、「他人事ではない」と思っていったことが示唆されている。

f:id:callmts:20220310235855j:plain

ロブ役はマーク・ラファロ

彼の妻のサラも最初は「まさかそんなことがあるはずがない」という反応で、ロブの変化についていけないが、テフロン加工のフライパンの危険性を知らされるに至って、「他人事ではない」と気づいた瞬間が描かれる。

訴訟の戦略として、デュポン側にも同情ではなく自分も汚染の害を受けるかもしれない「恐怖」を覚えさせろと語られるシーンがあるが、これは映画の観客にも当てはまる。うちのフライパンの「〜加工」は大丈夫なのかと危惧せざるを得ない。フッ素入りの歯磨き粉は大丈夫なのかと心配にならざるを得ない。

 

3 演出の良さ

3-1 スリラー演出。ロブの心理描写は、特にプレッシャーや恐怖に関してはセリフではなく、圧倒的に音や一瞬映る怪しい存在によってなされている。このスリラー演出がいいアクセントになっている。企業相手に闘うことの重圧(殺されるかもしれない)ということが効果的に表現されている。

事実の衝撃と正義の訴え一辺倒だと、エンターテイメントとして成立しなかったかもしれないが、スリラー演出で飽きさせない作りになっている。

3-2 理解者が出てくる演出。ロブは原告となる農場主が最初に現れた時に「狂っている」のかと思うが、事態を知るとともに次第に彼を理解していく。それと同様に、ロブが事実を知らせると、妻や弁護士事務所の上司も理解を示していく。皆、最初から正義や善意の人ではないが、事実を突きつけられると向き合わないといけないという責任に目覚めるという形で描かれている。この描写は、観客にも突きつけられる形になっていて見ていて巻き込まれていく。

感動的なのは、理解者が「狂人」や「失敗者」とみなされている人を弁護して、前に進んでいく過程の描写である。上司がロブを援護するシーンと、訴訟の困難の中で妻が上司に対してロブを弁護するシーンが特に印象的。ロブが10回も転向した子供時代のエピソードがいきなり放り込まれたりするが、それで一気に表現する演出力がすごい。この演出の力で映画はドラマとしてものすごいいいものになっている。

 

妻役は『プラダを着た悪魔』のアン・ハサウェイ。本作でも美人で時々無性にエロティックに見える(エロティックなシーンはありません)。

f:id:callmts:20220310234814j:plain

アン・ハサウェイ

正しい喧嘩よりも楽しいパーティー、社会正義より家庭平和と子供の教育といったある種当たり前の「エゴイスティック」なシーンが彼女に関して描かれるのもアクセントになっている。普通に自分の幸せを願う彼女が、次第に正義の闘いに向かうロブを支えるに至る描写が良い。ロブがくじけそうな時に抱きしめるのを子供が見ているシーンもものすごく良い。

 

あえての難点

あえて難点を言うと、日本人観客には、デュポン側の人や、弁護士事務所の人間の顔の見分けがなかなかつけづらい(笑)。

それぞれ味がある顔をしているだけに、認識できないのがもどかしく思いながら見ていた。この辺が見分けられるとさらに面白く観れそう。

もう一つ難点というか、理解できなかったところとして、冒頭のシーン(若者が汚染された湖で泳ぐシーン)。分かるようだが、スキッと腑に落ちない感じが残る。

 

何れにせよ、観られる機会があったらぜひ観てとおすすめしたい映画でした。

 

ロマンス・ドール

ある晩、amazon primeでちょっとエッチなものを見ようとしていた。

過激なものや「実用的」なものではなく、なんとなくエッチなものである。

 

検索したところvシネみたいなものが多く⭐︎は大体3弱。

そんな中⭐︎4つだったものをクリック。

「ロマンス・ドール。主演:高橋一生蒼井優

 

この二人が主演ということは意外と普通の映画?と思いつつ、見てみることに。

 

ラブドール(ダッチワイフ)製作工場で働くことになった高橋一生が、オッパイのモデルとして現れた蒼井優と結婚するも、色々あって・・・二人の秘密と関係はどうなっていくのか・・・といった話。一気に最後まで持っていかれた。

 

蒼井優

個人的見所はドラマ部分以外だと

1 蒼井優のラブシーンの角度 騎乗位(!)で見せる背中の美しさ!。

2 蒼井優の顔 サッパリしてるけど表情の変化がとても魅力的!

3 蒼井優の日常の幸せシーン CMみたい! 

 

CM的な普通にいい感じの部分と役者的な部分の魅力に加えて、さらに肉体の魅力まで楽しめます。ドール優も素敵です。

 

全体の展開

序盤は普通にちょいエロコメディ風で、蒼井優のオッパイが見れるのか、見れないのかでドキドキします。きたろうがいい感じで出ていて高橋一生と遊んでいます。中盤は蒼井優が普通の「出来た妻」になっていて、高橋一生が仕事に夢中になったこともあって、オッパイ要素がなくなります。後半に再び現れるオッパイ要素は序盤の妄想と中盤の現実をアウフヘーベンしたロマンスになっていくのがとても良かった。序盤に期待したエロ以上のものを目の当たりにする展開で、期待は裏切られつつも、期待以上のものを観てしまった感じの映画でした。アウフヘーベンヘーゲル哲学用語で、未熟なものを捨てつつも、高次の段階で取り戻すといった意味ですが、この映画では妄想のエロを捨てつつ、現実のスケベ心をさらけ出してロマンスに至るという、まさにアウフヘーベン的展開になっています。

 

序盤の見所

序盤で、高橋一生が惚れてしまったオッパイモデルの蒼井優に忘れ物を届けに行く展開はベタだけど、走って追いかけるシーン(BGMが良い)と、追いついた先の階段でのシーンにワクワクドキドキしてしまう。技術的なことはわからないが、監督が基本をしっかり押さえているんだと思った。くっつくまでの展開はドキドキしすぎて恥ずかしいくらいで、こんなベタな麻薬を与えられていては自分はダメなんじゃないかとツッコミを入れながら見てしまうほど、漫画みたいな展開。見終わってから監督が女性と知ったが、男性の理想の展開をよく分かってらっしゃると思った。ただ、逆に女性から見ても、二人がくっつく展開は一つの理想形なのかもしれないと思う。

 

中盤の夫婦生活ドラマ

設定からして普通の人にとってのリアリティを追求してはいないにも関わらず、中盤でのドラマが急にリアルな感じになり、そうなってくるとラブドール含めて色々実生活のメタファーとも映る要素が際立ってくる。中盤のドラマ部分、二人の生活描写では、関係が単調になったり、愛が薄れたりしていく感じだったり、そのことへの寂しい想いだったりが描かれる。そんな中高橋一生とゲーセンで遭遇する女性の描写や演技も良い。

 

序盤とは対照的に、(特に結婚生活や倦怠期こみのカップル関係に関して)リアルに切実なものが描写されているのでグッと引き込まれていく。映画全体がどうなっていくのかも読めなくなってきて、先が気になる。見始めた時は適当なところで止めようかと思っていたのだが、先が気になりすぎて最後まで見てしまう。

後半の展開

後半は理想のラブドール完成を目指すコメディ的な展開と愛をどう形にするべきかを問うドラマ的な展開が入り混じっている。空騒ぎ的な笑いでもなく、シリアスに要求される感動でもないものを感じる展開。ギャグを盛り込みつつ、パートナーと向き合うこととは何かを描いていて心揺さぶられた。

 

高橋一生

高橋一生は妻が好きなのでちょいちょい見る機会があって、いつもいい演技だなと思っているが、本作も良い。蒼井優目当てで見る人と高橋一生目当てで見る人はどっちが多いのか気になるが、どっちから観ても観た人は多分いいものを観たと思うのではないか。

 

ちなみに彼のデビュー作を妻が持っていたので観ました。

スプラッター恋愛映画です。

CMとかは別にして変な設定の映画で力を発揮するのは初期からあんまりブレてないような。

 

 

Be My Last(宇多田ヒカル)、吉井和哉カバー

吉井和哉宇多田ヒカル「Be My Last」カバー

ロックバンドThe Yellow Monkeyが中学生の頃から好きなのだが、そのボーカル吉井和哉宇多田ヒカルのBe My Lastのカバーをしている。

 

宇多田ヒカルは積極的に聞いてはいないながらも、かかっているのを聞いて引き込まれるような名曲が多数あることは知っている。その中でもこの曲は本当に切なくて、吉井和哉経由で知ったのだが、実際歌ってみると歌詞にメロディーが100%ライド(乗っかる)していって、思わず泣いてしまうこともしばしば。

 

音源も当然いいのだが、ギター一本で聞いても聞かせる名曲。

 


www.youtube.com

 

吉井和哉のカバーはこのギター一本からも成り立つ原曲のエッセンスに忠実で、ギターロック版に仕上げている。歌い手が変わっても心に迫るものがあるということを、原曲のエッセンスを再現すること示しているカバーと言えるだおる、つまりカバーによって原曲のエッセンスの普遍性を表現している。ここでは本人とカバーの優劣を云々するのはあまり意味がないだろう。この曲は圧倒的にいい曲だということをカバーが示している。

 

Be My Lastの歌詞

この曲はメロディーもいいのだが、歌詞の強度がすごい。一つにはおそらく宇多田ヒカル自身の経験を反映しているだろう点でまず必要な表現だったのだろうと思わせる。伝え聞く範囲でも宇多田ヒカル自身多くの強度のある経験——結婚、出産、離婚、その後——をしていた。これを歌にしたという点を思うと、これだけでかなりクルものがある。

 

そして歌にすることでの普遍性の獲得という要素がある。宇多田自身の経験を超えて、少なからず重なるところがあるだろう聞き手の経験を響かせるところに、普遍性の根拠がある。もちろん、宇多田ヒカルに限らず、普遍性のある曲は歌い手と聞き手の繋がりを根拠にしているのだと思う。この曲の普遍性の特色は、宇多田ヒカルの極めて私的な経験と、つながるはずのない聴き手それぞれの極めて私的な経験が響く点にあるのではないかと思われる。

 

「間違った恋をしたけど、間違いではなかった」

 

うまくいかなかったが、真摯に恋をしたことが伝わる一節。失敗したけれども、私の最後の人であって欲しかった、あるいはそういう人を求めて恋をしていたという心からの叫びが響く。

 

もう一つ極めて印象的なのが冒頭の一節である。

 

「母さん、どうして。育てたものまで、自分で壊さなきゃ、ならない日が来るの」

 

宇多田ヒカルの親が「夢は夜開く」で伝説の歌手藤圭子であり、その母のもと歌手たるべくして育てられたのが宇多田ヒカルであるというのは、ネットで少し掘るだけで出てくる。ここには一方では偉大な親であり、他方ではある種毒親的な要素をもつ親に対する問いも込められているように思われる。

 

「育てたもの」が何であるかの解釈を、聴き手に開いておくことで、普遍性を得るという仕掛けもあって、技術的にもすごい曲なんではないかと思う。この曲の内部でいうと、最後の人であって欲しい恋人との間に育てたものであるだろう。だが、その後宇多田ヒカル自身も出産して、子供を育てているということを考えると、この一節の意味がさらに射程を広くして聞こえてくるのも面白い。

 

手のモティー

この曲でもう一つすごいモティーフが「手」である。

 

「バラバラになったコラージュ捨てられないのは

 何もつなげない手

 君の手つないだ時だって」

 

好きな人がいたら手はつなぎたい。「つなぎたい」のが「手」の本質なのだが、この歌では、その手が「つなげなかった」という切なさが語られる。「君の手つないだ時だって」という一行でもって、最後の人であるべき人と、永遠の関係を結びたかったことと、しかし、それが難しかったことを一度に表現する技術に裏打ちされた切なさの表現。そして、つなげなかったにもかかわらず、その過程で作り出された「コラージュ」を捨てられない「何もつなげない手」という表現。宇多田ヒカルはこの3行で、<永遠を求めつつ、永遠は得られなかったこと、だがそれでも永遠を求めているということ>を聴き手に一挙に示す。

 

この曲での手のモティーフは、どれも多くを想像させてすごい。

 

「何もつなげない手、夢見てたのはどこまで?」

「何もつなげない手、大人ぶってたのは誰?」

 

永遠に手をつなげることを夢見ていたこと、しかし、それを夢見ていた自分が「子供」だったことが示されて切ない。

 

「間違いではなかった」という救済

歌詞の研ぎ澄まされ方、それを切ない叫びで表現する仕方——この突き詰め方がすごい。

 

とにかく、この曲の歌詞は一行一行胸に刺さる。

 

「慣れない同士で、よく頑張ったね、間違った恋をしたけど、間違いではなかった」

 

永遠を求めつつ、得られなかった、あるいは傷つけ合うだけに終わったという意味では「間違った恋」だったが、求めた気持ち自体jは「間違いではなかった」と振り返るこの一節。

 

ここに見られるように、悲劇だが、そこには俯瞰的に見た場合ある種の救いがあるということも表現している。

 

初期の宇多田ヒカルの歌詞は、切ない叫びを切なくかつクールに響かせるものだったと思う。その時、その叫びは、叫びが結末まで行き着く地点を描かないもので、ティーン的な切なさだった。Be My Lastはその先の地点を見据えている点からしても成熟した曲である。そして宇多田ヒカルの魅力は「成熟」が落ち着きや安定に向かわずに、破局の深みとそこからの救済の希求の深まりを表現することにある。

 

永遠の形

高校生の頃、クラスでカラオケに行った時に、女子が歌いながら感極まって泣いている場面を見てすごいなと思ったことがある。その時の歌は椎名林檎だったように思うが、Be My Lastを歌いながら涙溢れるとき、彼女の感覚がわかったような気がする。

 

永遠を求める感覚、永遠に自分とつながる存在を求める感覚——これは女性的な永遠だろう。

自分の価値が永遠に認められることを夢見る感覚——これが男性的な永遠だろう。

ひとまずこのように整理できるのではないかと思われる。

 

吉井和哉は男性であるが、The Yellow Monkeyの初期においては、女性になりきるということを行なっていた。ある意味演歌的な表現を取り入れていたのだが、永遠を求めつつ、それが挫折する儚さを歌っていた。「4000粒の恋の歌」「シルクスカーフに帽子のマダム」はロック演歌の名曲である。

 

 

これらにおいては、「最後の相手」を求める女性的な永遠願望とその挫折が歌われている。

それに対して、吉井和哉の素の男性的な部分では、自らが永遠の価値を持ちたいという憧れとその挫折との間での葛藤が歌われる。

 


www.youtube.com

 

吉井和哉の歌詞の魅力は、唯我独尊的に、自分だけを「永遠化」するのではなく、「君がよけりゃ必要としてくれ、call me call me」と、具体的な「君」との関係で永遠を探る点にある。宇多田のbe my lastで歌われる一瞬と永遠の逆説的な接点に吉井和哉も敏感である。

 

一瞬と永遠の接点を、宇多田ヒカルは次のように歌う。「いつか結ばれるより、今夜一時間会いたい」。「いつか結ばれる」と言う観念的な形での「永遠」よりも、今の一瞬から永遠につながりたい、と言う感覚を重視している。生きた永遠を求めて、彼女は挫折し、しかし、この生きた永遠の探求にこそ真理があると考えている。吉井和哉に関しては、ある種男性的な自己永遠化への方向性を持ちつつも、この永遠を自分のために閉ざさずに、具体的な誰かとの関係と接続させる点に魅力がある。

 

先ほど紹介したCall Meは吉井和哉のソロ曲である。永遠と具体的な誰かとをめぐるモティーフに関しては、イエローモンキーだと解散直前の「ブリリアントワールド」が典型的である。一方で「何十年、何百年、何千年、何万年、何億年、何光年、何秒間君といられるだろうか」と歌って、永遠に次第に近づく。他方、「何秒間」と言う具体的な誰かとの時間に一息に還ってくる。永遠と一瞬の接続がここにある。

 

jamでも「Good Night 数え切れぬ夜を超えて、Good Night 僕らは強く、Good Night 僕らは美しく」と言う形で、時を経る中で純度を高めようと言う方向と、「こんな夜は会いたくて、君に会いたくて、君に会いたくて、また明日を待ってる」という、具体的な誰かとの時間に還ってくる感覚も、ある種の永遠の問い方である。

 


www.youtube.com

 

終わりに

以上、思いつくままに書いてきたが、Be My Lastはさまざまな考察を促すという意味でも名曲である。そして何より、繋がらないものを繋げようとする、あるいは繋がらないものを繋げる歌の力を感じる一曲である。

 

Be My Last(DVD付)

Be My Last(DVD付)

Amazon

 

この曲はPVも良い。歌の内容を直接的に表現するというより、この歌の切なさを世界観的に表現する作りである。何となくスマパンのPVを思わせる。

 

 

 

 

 

 

『山田玲司のヤングサンデー』からの『卒業』

山田玲司ヤングサンデー

最近ちょくちょく見ているニコニコ動画youtubeでも観れる)「山田玲司ヤングサンデー」は、漫画家山田玲司を中心にご機嫌なメンバーがじゃれあっている楽しい番組なのだが、山田玲司の教養と語り口のわかりやすさと本質を捉える力、衒学的にならずにエンターテイメントとしても楽しめるバランスがとても良い。メンバーより年上の「兄貴」役で「レイジさん」「レイジさん」と慕われているのだが、見ていても自ずと「レイジさん」と呼びたくなる、サブカル紳士山田玲司から目が離せない。

彼の漫画はあまり読んでないのだが、『アリエネ』は立ち読みで知っていたこともあって、全巻買って読んだが、爽やかかつ熱い良作である。

主人公だけでなく、出てくる人物人物に愛着が沸く。鹿児島から出てきた朴訥な天才肌が、パンチらを見てしまったシーンが何故か忘れられない(パンチラでキュンとしたのも久しぶり)(4巻くらい?)。

 

彼が漫画について語る話も面白いのだが、映画の話がとても面白い。個人的に観てきたものとほとんど違うものを膨大に観ている。個人的には邦画以外では、ドイツ映画に比較的偏って見てきていて、アメリカ映画をあまり見ていなかった。山田玲司は、アメリカ映画を幅広く見ているようなのだが、好きな映画を語るときに、とても見てみたくなるように熱く語る。毎週毎週あの熱量で話すというのはなかなかすごい(それに加えて居酒屋などでもっと話しているのだろう)。

 

山田セレクションのうちで今気になっているのは

ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』

 

リチャード・リンクレイター作品

 

アニメだが『少女革命ウテナ』(!?)

 

この人が信頼できると思ったのはゼータガンダムの解説動画の鋭さと深さを感じてからだったが、信頼できる人が良いと言っているものは見て見たくなるものである。彼が『少女革命ウテナ』について楽しそうに語っているのをみなかったら、一生触れることはなかっただろう。開かれなかった引き出しを開くきっかけを与える男、山田玲司

ウテナは第一話を何気に見たら、なかなかの衝撃だった。セーラームーンの後のフォーマットを寺山修司経由のスタイルで、女性の願望と苦境をえぐるようなアニメになっている。

 

上に挙げたのはどれも一見ダサそうだが、『スクール・オブ・ロック』などは実際見ると激アツである(これは山田玲司と関係なく見ていた)。

 

クロニクル:山田玲司の得意技

山田玲司(50台後半)の語り口には大きく言って二つあるように思う。

1 自分の情熱的な部分の核を開陳していく

2 論じる作品の歴史的位置付けを整理していく

 

1の語りで話す人はもちろんいるだろうが、そういった語り口は「ライドできない=ノレない」場合全く面白くなく、むしろ反感を覚えてしまうこともあるだろう。2が出来る人も少なくないだろうが、整理してくれるのはありがたいが、そこに何か魂のようなものが乗っかっていない話は、心を打つことは少ない。

山田玲司の稀有なバランスは、自分がそこまでライドしていない作品を2の手法で語りつつ、そうした時代を自分がどう見ていたかという話を盛り込むことで、作品を語る自分自身の話に自らライドしていくところで成り立っていると思う。興味がそれほどない作品でも、距離をとって話すというのではなく、その作品と自分の距離を保ちつつ、その距離が生まれる自らの必然性を常に問題にしているから、距離があっても話に熱が入っている。

 

この距離をとりつつ乗っかっていく話術が発揮されるのが「クロニクル」である。あるテーマが時代とともにどう変遷していったのかを、山田玲司支店でザックリかつ鋭く整理していくのだが、これがかなり面白い。

 

映画クロニクルの中でのアメリカン・ニューシネマの位置付けが、非常に明快で、かつ見てみたくなるような整理だったのでザックリ紹介したい。

 

アメリカン・ニューシネマ=ベトナム戦争

少し迂回して自分の話をすると、ドイツ映画が好きで、ファスビンダー などの「ニュージャーマンシネマ」が結構好きであった。ファスビンダー の映画は、普通のエンターテイメントではなくて、女性や若者、老人やゲイが愛と階級差がもたらす軋轢の中で悲しみや狂気に囚われていく様が描かれていて、かつそれが教育的な観点を持っており、「人は人に対してこういうことをしてはいけない」ということが観ている者にも痛切にわかるように描かれる。

ファスビンダーゴダールらのヌーヴェルヴァークに影響を受けたと言った話は聞くけどイマイチピンとこない感じで、歴史的になぜこういったものがあるのかよくわからない感じだった。

少し調べると、ヌーヴェルヴァーグの同時代現象としてニューハリウッド=アメリカン・ニューシネマがあることもわかってきた。だが、イージーライダーゴッドファーザーも最後まで見れなかったくらいなので、アメリカン・ニューシネマがなんなのかイマイチよくわからない。

 

そんな時に山田玲司の説明ですごく色々クリアになった気がした。

玲司の説明は明快で、ニューシネマは1965年のベトナム戦争をきっかけに、多くの疑問を突きつけられた若い世代の映画で、プロテストの気運と無力感の間を行き来する。ベトナム戦争に国家が乗り出すことへ若者たちはプロテストし、ロック、ビートルズなども連動して平和運動が起こったりもした。ただし、若者の間では盛り上がっても社会的趨勢を決定的に動かすことはできず、挫折を突きつけられた。この苦境を反映して、ニューシネマはハッピーエンドで終わるのかと思っても、不意の交通事故でバッドエンドに終わったりして、若さの反抗は大抵実を結ばない。こうした説明の上で玲司が提示するのは「とにかく反抗する若者が結局は死ぬのがアメリカン・ニューシネマである」というテーゼである。その後の展開も玲司クロニクルは追っていく。多くの人々がニューシネマの抱えた挫折に食傷していく中で、70年代後半のスターウォーズ、スピルバーク時代に移行していくというのが山田玲司アメリカ映画クロニクルである。

非常にザックリしているのだが、大きな流れはこのくらいザックリしている方がわかりやすい。

この玲司テーゼを踏まえると、ヌーヴェル・ヴァーグやニュージャーマンシネマはそのヨーロッパ的変形版として理解できる。アメリカン・ニューシネマ=ニューハリウッドは、既存の類型的物語を逸脱して、若い作家性を良しとしていた。この方向性は予算がなくてもある程度実現できる。ハリウッドに比べると予算の少ないヨーロッパ勢にとって、こうした傾向はむしろ歓迎すべきものである。こうした新しい波に乗る動きがヌーヴェル・ヴァーグであり、ニュージャーマンシネマだった。ヨーロッパでは、ここにさらに、古くからのアートの伝統を後ろ盾にしながら、映画の作家性を評価するカンヌをはじめとした映画賞文化が国を挙げて振興されていく。ヨーロッパ映画、少なくともドイツ映画に関しては、国や地方の支援が非常に大きな役割を占めている。ファスビンダー の映画が現在見られるのも、単に作品の力というだけではなく、こうした公の力も大きかった。

ドイツ映画の社会的な解釈については以下の本が詳しい。

ドイツ映画

ドイツ映画

Amazon

 

『卒業』

ダスティン・ホフマンになれなかったよ」という歌はなんとなく知っていて、そのラストが伝説的であるらしいことは、見たことがなくても知っている映画『卒業』。特に見なくてもいいかと思っていたが、山田玲司がしばしば言及し、ニューシネマというくくりで見た時も代表作である本作を見ないわけにはいかない。ということで見てみた。

 

「年上の人妻の誘惑とその娘との駆け落ち」というあらすじだけ聞くと「なんのこっちゃい」という感じだが、「ベトナム戦争の映画」と考えると全てが腑に落ちる。ベトナム戦争には一言も言及されず、アパートの大家が放つ「扇動者は嫌いだ」というセリフに暗示されるに過ぎないにも関わらずである。

主人公ベン(ダスティン・ホフマン)が、華々しい経歴と成果を残して大学卒業するところから映画は始まる。彼は、その華々しい栄光にも関わらず、明らかに不満足である。原作ではどうなのかわからないが、映画では、彼が童貞であるということに、大学卒業にあたっての戸惑いの一端を担わせているように思われる。原題the Graduateは「卒業」ではなく「卒業生」であると思う。ベンは「卒業生」ではあるが、卒業後の道をまだ見出していない。そして「童貞を卒業」してもいない彼は「卒業生」として胸をはれてもいない。

 

『卒業』は、しばしば童貞映画と理解されることもあるようだが、この童貞性は、映画中盤で克服される(「童貞の卒業」)ものであるし、全体のテーマではない。

冒頭から、「華々しく『卒業』したとて、親たちのように空虚な英華の世界に参入することに何の意義があるだろうか」という問いが、言葉には出されないまま冒頭に繰り返し現れる。これらのシーンはどちらかといえばコミカルであり、お祝いの余興として、自邸のプールにダイビングする場面では、ベンは両親たちの歓喜の声とは裏腹に、ダイビングスーツの中で息も絶え絶えに呼吸している。彼に向けられる「優秀な卒業生として成功への道が約束されましたね、そんな君と仲良くしたいのだ」というメッセージに強い嫌気を表明していく。

 

ここには明らかな反抗への意志がある。明確にオルタナティヴを示すことは全くできないが、大人たちの世界にそのまま入ることなどしないという形での反抗である。どういう方向に向ければ良いのかがわからない反抗の気分が人妻の誘惑にのっていく。最初誘惑された時ベンは、これが社会的に許されないことだから、ということで拒絶して自宅へと逃げ帰っていた。誘惑に乗るのは、大人の社会に参入することの意義が失われていたからだった。そして、映画では語られないが、おそらく当時この映画に若者がライドできた要素として、戦争が起こっている一方で、既存の社会でヌクヌクと成功することは決して良しとはできないという義憤に満ちた葛藤が、ダスティン・ホフマンに感じられたことが大きいのではないか。こう見ていくと、山田玲司のニューシネマ=ベトナム戦争映画というテーゼがあながち間違いでないと思うわけである。

 

もちろん、『卒業』はベトナム戦争の映画ではないが、体制への異議や苛立ちが基調となっている限りにおいて、ベトナム反戦世代がライドできる作りになっている。そして、この映画では、この苛立ちが完全な無力感や挫折に至るのではなく、反抗に未来を約束しないとはいえ、既存の誤った秩序からの脱出の希望を肯定する形になっている。

 

『卒業』は、ロマンティックであるよりアイロニカルなコメディ的要素の方が強いと思うが、ラストの方のシーンでベンの叫びを聞いて上げられるエレインの顔が神々しいほどにロマンティックであると思う。ここからの展開は、ネタ的にも用いられているが、例えば『愛のむき出し』のラストシーンはおそらく『卒業』なしにはなかったものではないかと思われた。

 

音楽はバーズかと思って聞いていたが、サイモンアンドガーファンクルだった。非常に印象的な音楽。

 

 

D. H. ロレンス 『チャタレイ夫人の恋人』

D. H. ロレンス作の『チャタレイ夫人の恋人』はスキャンダラスな姦通小説として知られ、日本でも裁判沙汰になっている。映画化もされているが、レンタルビデオ屋(最近行っていない)では官能ドラマジャンルに置かれていたりする。なので、これまで完全にイロモノで読まなくてもいいものかと思っていた。だが、私がいうまでもないのだろうが、これはとても真摯な名作である。ロレンスは真摯な作家だと思う。

 

映画は一度ネットで落ちているものを途中まで見たことがあった。

 

チャタレイ夫人の恋人(字幕版)

チャタレイ夫人の恋人(字幕版)

  • ホリデイ・グレインジャー
Amazon
チャタレイ夫人の恋人 [DVD]

チャタレイ夫人の恋人 [DVD]

  • シルヴィア・クリステル
Amazon

 

舞台は第一次大戦後のイングランド、一地方を領有する貴族であり作家のクリフォド・チャタレイは戦争時の傷で下半身が不能状態である。このクリフォドと結婚していたコンスタンス・チャタレイ=チャタレイ夫人がこの物語の主人公である。映画はざっと見た感じたと、不能の夫に満足できずに、庭番と不倫する話のように見えて、いかにも通俗的な話かと思ったが、性的な交流が満足にないパートナーと一緒にいる意味は何なのかという根源的な問題を突きつけていることはわかって、面白そうだと思っていた。不能な貴族の夫に代わって結ばれるのは、領地の森番をしている野生的な要素を持った男であり、労働者階級の方が性的=生物的には優れているという図式かと思われた。だが小説を読んでみると、もっと複雑な問題を追求しようとしていることがわかった。ロレンスは真摯な作家である。

 

ロレンスは1885年にイングランドに生まれている。父は無学だが色男だった炭鉱夫、母はピューリタンで結婚当初は夫の自分とは違った魅力に惹かれていたが、ロレンスを産んだ頃は、夫の金銭や酒へのだらしなさを軽蔑するようになっていた。当時の作家は概ねは貴族や教養層であり、ロレンスは出自からして、下層の要素を持っていて、これが『チャタレイ夫人』でも重要な要素になっている。

 

ロレンスは母の味方であったようである。彼は母と同じく、月の稼ぎを酒で無駄にしてしまう炭坑夫の生活を憎みながらも、その存在が自分の生育そのものでもあることを意識し、「下層」であることの悲哀を知っていた。「下層」から見た「世界」、下層から見た「上層=貴族」といった視点が作品にはふんだんに導入される。ロレンス自身は、下層出身でありながら、詩人、作家として認められ、教養ある文壇に参入していた。貴族や教養層が「下層」をはじめから野蛮で軽蔑すべき存在として切り離していたのとは違って、教養を身につけ作家となったロレンスの認識は、下層の人々は野蛮で軽蔑すべきであるにせよ、そういった人々が存在し、自分もそういった存在の端くれであると考えていた点で、複雑かつ鋭いものになっていく。

 

クリフォド・チャタレイは車椅子なしには移動できず、性的にも不能な存在だが、現代的作家としての名声を得ており、実業家としても成功している。「精神的」あるいは「経済的」な領域では彼は成功者である。チャタレイ夫人=コンスタンスは、物語の冒頭では、このクリフォドとの穏やかかつ知的な「精神的生活」に大きな疑問を持たずにクリフォドを支えながら暮らしている。クリフォドはわかりやすい形で、「不能者」という設定になっているが、多くのセックスレスの夫婦を考えれば、クリフォドの話は、特殊な話ではない。セックスレスでも精神的な安定があるのならいいではないかと多くの夫婦は考えているだろう。セックスは一時的、あるいは動物的なものであるのだから、そこに重きをおかなくてもいいだろう。

 

ロレンスは、当時の教養層が「不能」ではない場合でも、こうした性的次元を無視、あるいは「処理」すべき領域に落とし込んだ上で、精神的領域を高く見ていたことを冒頭数章で描き出す。精神的な領域はそれ自体としては、高尚であり得、衝動を廃して、純粋な理念や理想、美を語るのはそれ自体はいいことであり得る。それゆえ若いチャタレイ夫人=コンスタンスは、当初は、こうした「精神生活」に「性」の領域よりも高い期待を置いていた。だが、次第に彼女は気づき始める。自分が男性たちの「精神生活」のアクセサリーにされていること、そして、「精神生活」はしばしば「性的領域」をはじめとする根源的なものを等閑視するための言い訳としてあることに彼女は次第に気づいていく。クリフォドは不能者であるがゆえに「精神」や「経済」に没入していくというふうに描かれていてわかりやすいが、こうしたあり方は多くの男性に多かれ少なかれ見られるものだろう。

 

「チャタレイ夫人」の「恋人」となる森番はこうした状況で現れてくる。面白いのは「森番」の位置付けである。彼は単に下層、労働者、あるいは根源的な生に触れるプリミティヴな存在として現れてくるわけではない。言い換えると、不毛な精神の体現者である教養層に対するアンチテーゼとして現れてくるわけではないのである。彼は生まれは田舎の育ちではあるが、教育によって教養も得た人物であり、一部は炭坑夫の息子であるロレンスの自画像である。森番はしかし軍人となり植民地において将官として勤めた経験もある人物であり、エスタブリッシュメントの世界に半ば足を踏み入れていた。しかし彼は、社会の中でしっかりとした地位を得ることには向かわず、故郷に帰ってきて、クリフォドの領地の森番として生きることを選んでいた。妻との荒れた生活や世俗的出世をめぐる行為の虚しさを経験して、彼は人との関わりを避けるようになり、半ば隠遁した生活を過ごすために森番になったのであった。

 

この「森番」はつまり、将官という形で、上層に食い込みえた人物であり、そこからクリフォド的な「精神生活」を云々する社会階層にも関わり得たにもかかわらず、それに背を向けた人物である。チャタレイ夫人の前に現れる森番は、夫の「不能」とその弁明としての「精神生活」とは違う道を示しうる存在なのである。

 

ここから、コンスタンス=チャタレイ夫人と森番が次第にお互いの魂に触れていく過程、そして、お互いが何を求めて近づいていくのかが丁寧に描かれていく。「森番」は饒舌ではないが、時々その「思想」を語る。この思想が極めて真摯であり、非常に胸を打つものがある。彼は、人間が人間を愛し得るとしたら、お互いの違いや衝動のわがままを認めつつ、お互いに優しくあろうとすることによってではないかということを語る。

 

小説中では性行為における「体位」のようなわりと際どい問題も示唆される。ポルノ的文脈ではネタ的に大いに話題になるものの、実際の場面で腹をわって話すのはなかなか難しかったりもする問題ではないかと思われる。性行為においては自分がしたいことと、相手が望むことのぶつかりあい、その中での相手への配慮の微妙なバランス、そして相手への共感のようなものが問題になってくる。ロレンスは、こうした場面での少しの優しさが、根本的に大事なことではないかと、この小説で示している。人間は「教養」や「精神」によって武装することで、こうした「優しさ」を考えることから自分を免除しようとする。だが、それは根本的に間違っているのではないか。ロレンスはこう訴えかけている。

 

ロレンスは天下国家の話をしていない。また、人間の本質を語っているが、大上段に人間論を語るのではない。人間と人間が交わり合う中で大事なことは何だろうか、お互いのエゴと間違いを認めつつも、そうした中でお互いが愛し合うことができるとしたら、そのためには何が必要なのかということをひたすら問うている。

 

冒頭の話に戻るが、「優しさ」は誰のものか、という話を階級を問題にしつつ階級論に還元しないのがロレンスの特徴である。優しさの資格を、金や自己承認の欲望に塗れた「貴族」ではなく、市井の人々、「労働者」や炭坑夫に認めるというのではないのである。森番の妻に代表されるように、多くの下層の人々は「優しさ」を考える余裕を持たない。ロレンスの父もそうだったろう。貧窮ゆえに優しくなれない人に対して、ロレンスは、完全な軽蔑を持って突き放すわけではないが、「人間だもの」式に肯定することをしない。優しくあろうとしないのはやはりいけないことだと、ロレンスは言っているように思われる。人が人に対して優しくできないのだとしたら、そうした状況を変えるべきだろう。

 

優しくあろうとすること、自分の心に誠実であろうとすること、他人に対しては階級や階層で決めつけないこと。彼や彼女が優しい誠実な魂を持っているのか、あるいは持ちうるのかということだけが重要であること。こういった根本的な人間や人生への姿勢を『チャタレイ夫人の恋人』という小説は問うている。

 

繰り返しになるが、この問いは極めて真摯なものだと思う。こうした問いを回避したところには本当のことは現れてこないだろう。

 

ロレンスは完璧な思想家でも作家でもないだろうが、真摯な作家であることは間違いないと思う。

 

 

 

 

 

 

大島弓子『綿の国星』(「山田玲司のヤングサンデー」から)

漫画家山田玲司ニコニコ動画番組「山田玲司ヤングサンデー」を最近よく見るのだが、少女漫画家の草分けの代表としてよく名前が挙げられる大島弓子

少女漫画はあまり読んだことがないので、いい機会と思い一冊読んでみた。

 

 

冒頭は『綿の国星』ではなく、別の読み切りの一本「夏の終わりのト短調」にまずやられた。

両親が海外に出張でいなくなるということで叔母の家に住むことになるというところから始まる。一つ年上の従兄がいる、という設定でこの恋愛話かと思うと、教育ママとなった叔母が、本当の自分の気持ちに従えずにステータスに囚われていったことの悲哀の話だとだんだんわかっていく。社会批判的!猫の話もそうだが、ステータス(主に学歴とそれに伴うハイスペックな生活のイメージ)に囚われた社会を相対化する視点がものすごくストレートに鋭い。主人公が夢を見るのではなく、冷静に分析が深まっていくという作りが少女漫画でフルに展開されているのが印象的だった。

 

セリフ一つ一つに無駄がなく、かなりきっちり組み立てられている印象。主人公の豆腐屋の幼馴染への視点がすごい共感的で、作者はいい人だなと思う。

 

綿の国星も全体的に社会派と言う感触だが、こちらは猫の視点からの社会の相対化。

また読んでいきたい作品。他の漫画も。

 

少女漫画で知っている範囲で好きなのは池田理代子

自己犠牲と散りゆく美、没落してゆく高貴なものの儚さの美学にとても惹かれる。

 

 

あとはなんといっても『ガラスの仮面』! 「マヤ、なんて娘なの!」(ガーン:白目)

こんなに読み始めて止まらなくなる漫画はなかなか存在しない。

いつか完結するのか???

 

あと、山田玲司はめっちゃいい兄貴。彼の喋りはものすごいわかりやすくて優しい。

読んだ範囲でのおすすめは『アリエネ』

 

 

 

 

バチェラー・ジャパン 地獄の評価ゲーム

バチェラー・ジャパンを初めて見た(シーズン1)。

 

陰キャ非モテ時代が長い私(男性)は、その心性が染み付いているので、この手の番組はなんとなく遠ざけて見ていなかったのだが、酔っ払った勢いでなんとなく見てみたら意外にも面白かった。

 

 

面白いと思う点は、選ばれる側の女性が、バチェラーと愛し合う関係にあるのかを考えているのか、単に自分が評価=承認されるのかを考えているのかで結構態度が違う点である。というか後者の方にどんどんみんな傾いていく。

 

バチェラーの側は(おそらくは)実際に結婚相手となりそうな人を探している。本来は女性側も誰が自分に合うのかを選ぶ側にあるのだが、この場では東大卒のイケメン実業家という超ハイスペックで「誰もが羨む」バチェラーが相手という設定もあって、彼女らは彼に選ばれる=自分の価値が承認されるというゲームを心理的に始めている。

 

まわりくどい説明で恐縮だが、本来は、「ハイスペック」に承認されることが、自分が肯定されるということとイコールではなく、自分が一緒にいることで幸せでいられるような相手が、相手もそう思って一緒にいるようなことがカップルとしては望ましいのではないか?そう考えると、彼に選ばれることが幸せではなく、彼と一緒にいることが幸せなのかどうかを判断することをしていなければいけないはずである。

 

なので、彼女らのうちの少なくとも一部は結婚相手を探しているとは見えず、単に自分が承認されるか否かを確かめているようになっている。ローズセレモニーの2回目あたりからその点が顕著になっていて、選ばれたい理由が、バチェラーと結婚したいからではなく、単に薔薇が欲しいからというゲームに移行し出している。

 

このゲームは、小学校くらいからさらされる評価されゲームであり、例えば非モテ系はそうしたゲームが繰り返される中で自分が選ばれない存在であるという感覚に見舞われる中でそのメンタリティを形成していく。このゲームにさらされる以前に、自己肯定感が育っていた場合は、表面的印象では選ばれないだけであって、自分は大丈夫だと思えるだろうが、そうでなかったら、かなりしんどい。シーズン1の途中で薔薇を送られて––––薔薇をもらうと次のステージも残れる––––断るwebクリエイターの女性(34)は、ゲーム自体のしんどさを理由にそこから離脱するが、彼女の選択は賢明だと思う。パートナー探しは評価されゲームではなく、実際に一緒にいられる相手かを確かめる行為であるはずだからである。

 

評価されゲームの中でモテてきたと思われる女性(=美人)であればあるほど、むしろこの評価されゲームの中ではしんどいかもしれないと思う。放っておいてもチヤホヤされてきた自分は黙っていても評価されるべきなのに、ここで選ばれない可能性を強烈に突きつけられる。それゆえ、「あの子ではなく私が選ばれたい」という気持ちが高まっていく。そう森田冴英である。

 

このゲームに入り込んだが故の嫉妬はかなり強烈で、この嫉妬の顔は演技ではあり得ないような強さを持ってカメラに収められている。「ゲームに負けた」と言う感覚になった時に本気で涙を流すのがかなり強烈で、見応えがすごい。

 

面白いのが、この時に、泣いている競争相手に普通に同情して声をかけたりする女性(坂本くるみ)もいることである。実際付き合うならこういう女性がいいのではないかと個人的には思う。ただ彼女もだんだん評価ゲームにハマっていってしかも敗退する。

 

もう一つ面白いのが芸能活動の一環で出てるだけの「ゆきぽよ」の感情の起伏が「ほぼ無」である点である。なんで彼女に薔薇がいくのかもほとんど意味不明である。

 

ともあれ、ただ相手を探す場合であれば、「あいつは見る目がない」で終了でokなはずが、負けたと言うことで本気で悔し涙になっていく。そして、この評価ゲームで負けた悔しさには参加者が共感できるので、結構もらい泣きも生じるのも面白い。

 

評価=承認欲求の暴走が先鋭化するのが露呈している場面が、ツーショットタイムでの会話である。本来は、相手のことを知るための時間であるはずだが、意識は完全に「自分が何位なのか」「誰が一番なのか」に向かっていて、そのことをバチェラーに聞いてしまうのだ。

 

それに対して、技術なのかどうかわからないが、バチェラーのことを「好きになった」とちゃんと言う女性は少し違う原理で動いているようで好感がモテる。

 

バチェラーだが、最初はやはり「イケすかない」と思ったが、意外にもいいやつで、上記の女性たちの激烈な感情にも配慮しながら紳士的に振る舞うのは、かなり大変なんではないかと思う。これをやり切っているので「さすがだな」としか思わなくなってくる。ほんで見る目も流石に結構ありそうなのである。

 

エピソード7まで見て結構面白いが、このあたりからひとりづつ減っていく展開が遅くなってくると思ったら、次は水着である(!)。番組としてはよくできている(笑)。

 

とりあえず次も見てみたい。

 

予告編。

 

と思いつつググったら誰が選ばれるか知ってしまった(ガーン)!

 

 

 

 

こんなんもあったが、この地獄のゲームから何を学ぶんだろう?