ボールが来ないときのキーパーは・・・『ゴールキーパーの不安』 今見ても新鮮。
『ゴールキーパーの不安』1972年、西ドイツ。原題 „Die Angst des Tormanns beim Elfmeter“ (ゴール前11メートルのゴールキーパーの不安)
ヴィム・ヴェンダース監督、アルトゥーア・ブラウス主演。原作ペーター・ハントケ。
本作はペーター・ハントケの同名の小説を映画化したもので、ハントケ自身も脚本に加わった。ちなみにハントケは最近ノーベル文学賞を受賞。小説も再刊。
一般的にはたぶん退屈な映画で、あんまり意味もわからないものだが、アウトサイダー感が好きな人、なんとなく意味ありげなものに意味を探せる人はけっこう最後まで楽しめる映画。サッカー映画ではありません。個人的にはけっこう好き。
どんな話か? どんな描き方か? ネタバレもありますが、ネタがわかってても別に観れる映画。
主人公ブロッホはもと有名なゴールキーパーで、現在はブラブラしている。映画ではセリフなどは変更されているが、ほぼ原作通りの内容で、原作同様主人公の行動が淡々と描かれる。映画の切符売りの女をナンパして次の朝に不意に殺していたというのが一番大きな出来事だが、この殺人も含めて行動の理由・意図についての説明がなされない。殺す理由がわからないし、他の行動から推測して、真の意図を探るといったことに客を向かわせる要素もない。警察を少し気にしがらも国境付近の知り合いのところへ向かうブロッホの姿を映画は淡々と追っていく。
非ドラマ的映画 ボールが来ないときのゴールキーパーについての映画
普通の映画やドラマであれば、状況に対する主人公の対処が話を動かしていくはずだが、この作品では、主人公ブロッホと状況はいわば一体化しており、観客はその状況の変転をただ見せられる形になっている。起伏のない、移動も少ないロードムービーを見ているような感じ。
ブロッホは新聞で事件についての報道を追ってはいるが、劇的なニュースはそこにはない。普通であれば、ニュースを見て追い詰められたブロッホが動く・・・あるいは、警察の側が次第に証拠を集めて、追い詰めていく・・・といった話になりそうだが、そういったことはない。
映画の最後でブロッホがサッカーの試合を見ながらキーパーについて語る。「普通観客はゴールの行方とフォワードを追うが、キーパーを見ているとボールが来ない間にもいろいろと動いている。客がキーパーを見るのは、ゴール前だけだ」
これをメタファーとするなら、この映画では観客はゴール前でない場面でのキーパーを見せられているというふうにも理解できる。
いずれにせよこの映画は、当時、それまでの物語描写の手法に対するアンチ・テーゼの意味をもっただろう。現在見てもそれなりに新鮮。
原作もほとんど意識の描写や行為の動機の説明なしに淡々と叙述が進む。映画は、これをうまく映像化していると言える。
落ち着かないキーパー
映画の冒頭では、原作とは違うサッカーシーンから始まる。ブロッホは、ゴール脇にいた少年に声をかけて少し目を離したすきに、オフサイド的な敵の攻撃にゴールを許している。審判と喧嘩して試合場を出て行く。
ボールが飛んでこないキーパーであるブロッホは、それでも落ち着きなく色々と動いている。特に大きな起伏もないのに、なんとなく観れてしまうのは、主役のアルトゥーア・ブラウスの不敵なアウトサイダー感と彼が起こす小さなアクションが意外と面白いからだろう。彼はよく女にちょっかいをかける、そしてよく絡まれて殴られる。
国境沿いで酒場を経営している友達以上恋人未満的な女にこう言われる場面がある。「あんたはなぜそうなの?立ったり座ったり、出て行ったり、つったったり、戻ってきたり、つかんだり、離したり・・・?」
実際、映画でブロッホは大体ブラブラと何かして、動いている。意外とそれだけで観られるということを示したのがこの映画の新鮮な点である。
なぜ観れるのか?
おそらくこの映画に最後まで付き合えるのは、ブロッホに自分を重ねたり、興味を持てる場合だろう。ブロッホは、特に動機や心情を説明しないが、行為から彼が何を考えているか、何を求めているかは多少の推測が可能である。次のような行動から、少々人間臭い動機もうかがえる。
・ブロッホは自分はもうスポーツ選手ではないが、自分はキーパーであるスポーツ選手であると繰り返し言う。役割は欲しかったのかもしれない。あるいはチヤホヤされたいのかもしれない。
・電話を繰り返しかけようとする。原作では元妻に電話をかけようとしている。映画でも元チームメイトか監督かにかけようとしている。なんらかのつながりも欲しかったのかもしれない。
結局のところは、はっきりと語られないので観客の解釈次第だが、全く感情移入できないわけではないところ、感情や行為には共感できなくても、アウトサイダー感だけで多少の連帯感をもてるところがミソだろう。
音楽
音楽はヴェンダース映画らしい感じ。主に二種類の曲の繰り返しで、不穏な空気を煽る曲と穏やかに陽気な曲との交代。このバランスがよい。 ジュークボックスやレコードでかかる音楽は大体アメリカンな曲。
この作品で組んだペーター・ハントケとは友人で、1975年の『まわり道』もハントケ原作。有名作『ベルリン天使の詩』もハントケが協力。
ハントケはユーゴ内戦時にセルビアの肩をもって論争になっているが、ヴェンダースともそれがもとで仲違い。ヨーロッパではとりあえずセルビアが悪いというのが主流のよう。ハントケのノーベル賞受賞後も多少問題になった。
このあたりは興味ぶかいので、ドイツから多少離れるが、エミール・クストリッツァの監督映画などと絡めて調べてみたいところ。