メナーデのドイツ映画八十八ケ所巡礼

メナーデとは酒と狂乱の神ディオニュソスを崇める巫女のことです。本ブログではドイツ映画を中心に一人のメナーデ(男ですが)が映画について語ります。独断に満ちていますが、基本冷静です(たまにメナーデらしく狂乱)。まずは88本を目指していきます。最近は止まっていましたが、気が向いたときに書いております。

女同士の愛憎舞台が示す普遍性 『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』 1972年、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督作品

1972年、西ドイツ映画 原題 „Die bitteren Tränen der Petra von Kant

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督、マーギット・カーステンゼン、ハンナ・シグラ主演

 

ペトラ・フォン・カントの苦い涙【DVD】

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ニュー・ジャーマン・シネマの鬼才ファスビンダーは自身同性愛者だったが、彼が同性愛を初めて扱った作品。 ファスビンダーはもともと劇団も率いて戯曲を上演しており、『ペトラ・フォン・カント』も舞台が先にあった。

 

映画もほぼ全編を通じて、主人公のペトラの家で撮られる。

登場人物も少ない。画面に出てくるのは全員女性。以下、登場順に紹介

・ペトラ・フォン・カント:成功したデザイナー、離婚している。子供は寄宿舎で暮らしている。フォンは貴族の称号。 

マレーネ:ペトラの助手 劇中通して無言。お茶入れからデッサンまでペトラの雑用をすべてこなす。

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前:ペトラ 後ろ:マレーネ

 

・ジドニー・フォン・グラーゼナーブ:ペトラの友人。離婚したペトラを「心配」してやってくる。

・カーリン・ティム:ペトラが連れてきた若い女性。モデルに憧れている。既婚。

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左:カーリン 中央:ジドニー 右:ペトラ

・ペトラの娘

・ペトラの母

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ペトラが向かい合うのは、左:ペトラの母 中央:ペトラの娘 右:ジドニー


それぞれの人物が、ペトラと精神的に衝突する。それぞれどのような衝突なのかを以下で見ていこう。

 

古い女と新しい女のジェンダー論的闘い

ペトラは、デザイナーとして成功した女性で、自らの仕事で生きている。ペトラは自らの仕事で活躍する「新しい女」である。彼女の友人ジドニーとの長い会話がまず最初の見どころである。ジドニーは「妻」としての幸せを享受しており、「夫」をアイデンティティの中心にすえる「古い女」である。

映画最初の見どころは、「古い女」が「新しい女」の不幸を「心配する」場面である。ジドニーは、ペトラの「離婚」が彼女にとって心痛になっていないか心配していると言いだす。「心配している」と称して相手への優位や自分の幸せを確認しようとする類の人間は現実にも見られるが、ジドニーはそのわかりやすい具象化である。

ジドニーが示唆するのだが、当時は女の方から別れるのはありえない。女はすがりつくものという見方が一般的だったらしい。どちらから別れを切り出したのという質問に対して、ペトラは「私から」と言って、ジドニーを驚愕させる。

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鏡ごしに語るペトラ。後ろはジドニー。

この勝負はペトラに軍配があがる。

 

成功した年長者と若い恋人のせめぎ合い。

映画では十分にその経緯は描かれないが、かつては夫もいたペトラは同性愛者である。ジドニーが連れてきた若いモデルに惹かれたペトラは、仕事があるかもしれないと声をかける。

ペトラには、仕事で築いてきたキャリアとコネを活かして、気に入った人物を取り立てることが可能だった。カーリンの方では、コネがなければ何もできないが、コネさえあれば若さと美貌でのし上がることは可能だった。ペトラはカーリンを、コネと引き換えに愛人とする。カーリンの方では、離れた夫が一番で、ペトラには性愛を感じていないが、ペトラのコネを利用する。

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ペトラとカーリン、お互いが違う方向を向いている。

ペトラは次第に、カーリンに搾取され、愛は軽薄な表面でしか得られなず、カーリンと衝突する。

 

ペトラの 娘と母

ペトラが行き詰まり、カーリンが去ったところでペトラの娘が長期休暇を利用してやってくる。ここでは、娘がペトラに初恋の話をし、いいアドバイスをくれる「母」を期待するが、 ペトラはそれどころではなく、娘の悩みを一笑にふす。ペトラの母も現れるが、母親らしい月並みな心配を並べるだけで、ペトラの状況を理解しない。娘は古いタイプの「母」を期待し、母は「昔から変わらない娘」に語りかける。ペトラとしては、はねのけるしかない。

そこへジドニーが現れ、ペトラを痛めつけるかのように、彼女の状況を説明していく。

ここでのジドニーは心底うっとうしいが、古い価値観に則ったペトラを期待する彼女の娘と母に、ペトラが、古い価値を裏切っていることを示唆する役割である。 

ペトラは、三人の非難の声をはねのけ、私は私の力で生きていて、お前らはそれに助けられているだけだ、といったことをわめく。

 

フェミニズムからの批判

ペトラは「新しい女」として活躍しながらも結局幸せではなく心は病に陥るという筋書きがあるように見える。当時のフェミニストはそう受け取り、ペトラの狂乱の描写に対して、「新しい女」の価値を矮小化していると批判したらしい(DVD解説参照)。この批判は当たっている部分もあるが、おそらく監督ファスビンダーにとっては折り込み済みの批判だったろうと思われる。

 

ペトラの「苦い涙」は、「新しい女」が古い価値に結局敗北したということで流されるものではない。「新しい女」として得た社会的成功が、社会参入以前の若い恋人の魅力を前にしてなすすべなく屈服し、利用されるだけに終わったことに、ペトラは涙している。社会的成功と無縁に愛されなければ、それは真の愛ではあり得ず、成功をかさに着て愛を得ようとした彼女は、没落せざるを得ない。これはある意味自明の理である。

 

『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』が示したもの

ファスビンダーがこの作品で示しているのは、社会的に成功を得たとして、それが真に求めるもの(「愛」)につながらないのだとしたら、成功したとてもたらされるのは「苦い涙」だけ、ということである。ジェンダー論とはさしあたり別のモティーフが作品の核にある。

DVD解説によると、ペトラはファスビンダーの分身であり、カーリンは彼の当時の同性の恋人をモデルとしていた。彼らも同性愛ではあるが、「苦い涙」自体は「真の愛」を得られない者皆に普遍的なものである。ファスビンダーが同性愛をモティーフとする作品に関して、同性愛者でなくても強く揺さぶられるのは、同性愛という「特殊」なモティーフから、むしろ「普遍的」問いが導きだされているからである。この「問い」を観客が受け止めざるを得ないからである。

問い自体は、ある意味で古典的かつありふれたものであるが、ありふれた問いは大抵解決されずに残っているものである。人間がそう簡単には「真の愛」に触れられない以上、残念ながらこの映画も古びないのだろう。