人付き合いには不器用な・・・傑作『マーサの幸せレシピ』・・・オススメ映画のポイントを考察。リメイクとの比較あり。
2001年ドイツ映画。原題 „Bella Martha“(ステキなマルタ) 106分。
ザンドラ・ネッテルベック監督、マルティナ・ゲデック、セルジオ・カステリット主演
これは非常に傑作映画。料理の腕はピカイチだが、客を罵ったりと「問題行動」もあり、人付き合いには不器用なシェフ、マルタの話。邦題では英語風にマーサになっているが、ドイツ語ではマルタである。ドイツ語を知らなくてもマルタもしくはマータと聞こえると思う。なので以下マルタで表記。
内気な主人公が次第に心を開いて・・・というような話はよくあるし、本作も基本はそういう話なのだが、男性だけでなく、事故で死んだ姉の娘との間で心が通うまでの過程の描き方が筋が通っていて心を揺さぶる。描写も丁寧で俳優の演技も優れている。監督や主演のマルティナ・ゲデックはドイツ本国でもそれほど知られていたわけではなかったが、本作で注目される。ゲデックと相手役のイタリアの俳優カステリットはドイツ映画賞、およびヨーロッパ映画賞で主演賞を得ている。
映画はアメリカでリメイクされたが、後半が大きく変更されている。
以下、作品のポイントを考察していきます。ストーリーもけっこう紹介してしまいますがこれを見ても映画は楽しめると思いますので、未見の方も是非おつきあいを。内容は次のとおりです。
映画のポイント
1 主人公マルタの描き方
冒頭15分ほどが、マルタの登場・紹介シーンである。この時点では単に料理バカなのか、何か精神面で少し「ズレて」問題がある人なのかどっちともとれる描き方。客に呼ばれて前に出るときは、冷蔵室(?)で一呼吸置くなど、対人関係への繊細さも感じさせつつ、「野蛮」な客の的外れな文句には黙っておらず、「二度と来ないで」と言い切る強情さも描写する。隣人との関係でも大胆なのか不器用なのかちょっとわからない。
仕事場ではきっちり働くが、新しく越して来た隣人(半ばまで正面から顔が映らないのでわかりづらいがデンマークの俳優ウルリク・トムセン)との食事の誘いがすれ違い続け、作る料理はおいしそうなのに、結局それを食べるシーンがないというギャップ。この人には何か問題がありそうだ、そしてそれは何なのだろうと注意を惹かれる。
2 「食事シーンがない」という暗示
「幸せレシピ」のタイトルとパッケージの雰囲気から、料理で人を癒すみたいな話と勘違いされるかもしれないが、マルタの料理が誰かを幸せにしているシーンは実はない。食べ方が美味しそうなシーンのある映画は、それだけでけっこう魅力がある。宮崎駿のアニメは美味しそうに食べるシーンの印象(ラピュタのパズーの目玉焼きトーストなど)が圧倒的である。料理人が主人公なのに、料理を美味しそうに食べるシーンが出てこないというのはそれだけで大きな暗示である。
この意味で演出はわりと王道であり、主人公の状況が周囲と連動するようになっている。人との壁がある前半部では、マルタ自身も料理を食べないし、マルタの料理が食べられるシーンもない。マルタが料理のセオリーを説く場面があるだけである。
3 姪のリナも食べない
マルタは、遊びに来る姉と姪に料理を振る舞おうとしていたが、その姉が途中事故死してしまう。マルタは姪のリナを預かることになるが、リナは心を開かない。心が次第に細っていくことの比喩、そのことに気付くべきことの比喩を、水槽のイセエビの話でするなど、脚本も面白い。
おいしそうなジャガイモの炒め料理が出来上がっていくシーンが映るにもかかわらず、リナは食べず、マルタも食べない。
リナの父と母は、彼女が物心つく前に分かれており、リナは父についてジュゼッペという名前でイタリアにいるということしか知らない。リナはこの見知らぬ父に会いたいというが、不安げでもある。
4 遅刻し、厨房で歌うイタリア人
そうこうする間に、産休に入る同僚の代わりに雇われてきた料理人のイタリア人マリオが現れる。彼の一挙一動がマルタの神経にさわる。マルタは自分が切り盛りするキッチンを侵害された気がしてピリピリするが、マリオは一歩踏み込んでコミュニケーションをとってくる。このマリオとのやりとりで、マルタは自分の壁にも気づき、心を開くきっかけも得る。
この三人がメインキャラクターになります。三人の交流と接近が始まります。
5 マルタ 「・・・べき」の人
彼女は相手の意志を探りながら、自分がどのように振舞うべきかを考える人である。例えばリナに対して、「私はどうすべき?」「どうして欲しい」という聞き方で話しかける。あるいはきっちりとした通念に関しては、「そうせねばならない」という規則を遵守する。「仕事には時間通り来て、努力をおしんではならない」「子供は学校に行かねばならない」という常識を守る。
自分の料理に関しても、最大限の注意と労力を払っているのだから、「おいしいものになっているハズ」という態度である。ここでも依拠するのは「セオリー」と「・・・べき論」である。マルタは、理論に基づいてきちんと実践していることに関しては強い自負がある。
しかし、「理由」なしには、「自分はこうしたい」「あなたにこうしてほしい」という意志の表明が出来ない。このことが映画では丁寧に描かれていく。
リナがマルタになつかないのも、ここに原因があって、「べき」「ねばならない」という語尾にリナは不安を覚えてしまう。「姉の娘だから私が面倒を見るべき」というふうにマルタから思われているとしたら、リナは安心して甘えられるだろうか? マルタはリナのことを大事に思っていないわけではないのだが、出て来る言葉が「べき論」の文法に則っているので、距離が縮まらない。
6 マリオ 「・・・したい、してほしい」の人
それに対してマリオは、「こうしたい」ということをする。厨房では気分の上がる音楽を流し、楽しみながら仕事をするし、同僚にもその楽しさを伝えようとする。自分の料理のアピールも、おいしいはずだ、という観点ではなく「食べてほしくて作った」ということが全面に出て来る。あなたのためを思っているし、自分のことも尊重してほしい、ということを率直に表明するのがマリオである。マリオは、相手のために必要だと思ったことを、「こういうときにはこうするべき」という「べき論」を抜きにして、率直にやる人間である。映画でリナが初めて食べるのはマリオが厨房でつまんでいたパスタである。
7 リナを介した二人の接近
マルタの行動原理に相容れないように思われたマリオだが、意表をつかれるたびに少しドキドキもしている。マリオを演じるカステリットはこのあたりでは、完全に「奔放なイタリア人」を演じきっていて、しかも優しいキャラなのでとても好感がもてる。マルタ演じるゲデックの演技は絶妙で、「べき論」の壁をマリオが破ってくる瞬間に、一瞬「素の顔」を出すやり方がとてもうまい。
二人の交流が深まる過程の描き方も自然で、マリオが外面的にも感謝してしかるべき二つのことをする。
・食事をとらなかったリナにパスタを食べさせる。
・リナの父のアドレス探しを手伝う。
マルタは、当然感謝すべき場面であり、素直に感謝を表すとともに、マリオへの信頼を覚えていく。リナは厨房に遊びに来るようになっているが、打ち解けた二人の様子を見て、マリオはマルタに好意をもっていく。
大人の二人のギヴ・アンド・テイクではなく、リナを介した関係から、お互いに好意を覚えていくというプロセスが見ていてとても幸せである。
リナの要望でマリオを家に招いて、マリオがイタリア料理を振る舞う。とり皿なしで、大皿からみんなでつまんで食べる。
このあたりはとても幸せな展開なのだが、これで終わったらユートピアである。リナは社会的にはいわば宙づり状態で、学校にも行っていない。どういった暮らしをしていくか、社会の中で位置付ける作業が必要である。マリオとの関係も、そんなにすぐにうまくいくわけがない。
8 社会との折り合い リナはどうすべきか
レストランのオーナーの指示でマルタは、心理セラピーに通っている。マリオが来て料理した後、散らかった部屋をみて過呼吸になるシーンが挟まれるので多少パニック障害的なものがあるのかと思われる。マリオの機転で過呼吸はおさまるものの、マルタはマリオとのキスは避け、次のセラピストとのシーンでは「努力しても変えられないものもあるの」と諦め顔をみせる。そんなにすぐに自分の殻がなくなるわけはないのである。
ここで、リナが実は学校に行っていなかったことが判明する。マルタは「やはり学校にいくべきだ」と諭すが、リナは「イジワルだ」と反発する。母が突然死んで、どうしていいかわからないリナにとって、「ともかく学校にいくべきだ」という言葉は、リナの気持ちを無視しているかのように響くだろう。母親が恋しいこと、しかし、母親の死は乗り越えないといけないこと、だが、それも母のことを忘れるようでつらいこと、などがマルタにもようやくわかる。イタリアへ向かおうとして警察に保護されたリナに、マルタも本音で向き合う。マリオも深夜、マルタを訪ねてきて、料理人同士らしく目隠しでハーブを当てるゲームからのキス・シーンに展開。
翌朝リナの父ジュゼッペが現れる。ジュゼッペはイタリアで妻と子供と暮らしている。彼は穏やかで優しそうではあるが、リナもマルタも浮かない顔で荷造りを始める・・・
色々と残る葛藤がどう解決されるのか、残りは是非映画を見ていただけたらと思います。晴れやかに終わります。
ドイツ語版の脚本の良さをまとめると
1 マルタが壁から自分で出て行く内容になっている
この映画がいいのは、不器用なマルタが自身で自分の作っている壁に気づいて、自分でそれを取り払っていくところだと思う。優しい都合のいい男性が、壁をなくしていいんだよ、というような話にならないのは、リナの存在があるからである。マリオに触発される形でマルタがリナに向き合っていくところが本作の一番の見所である。
2 「症状の回復」の話にせず、「自己開示」の賛美をしないところ
完璧主義で、ルールがないとしっくりいかないマルタについて、映画ではある種の「症状」ともとれるようにセラピーを受けている。マリオがマルタの家で料理したあとの散らかったキッチンをみて過呼吸になるようなシーンがあるが、パニック障害的なものがあるのかとも思わせるが、マリオの機転で回復する。最後まで特になんらかの病的問題との関連付けはなされない。このあたりは、人間関係の「不器用さ」を、心理学的「症状」の文脈で論じる必要はないというメッセージともとれる。やや説明不足だが個人的には好感がもてる作り方である。
もう一点の方が重要かもしれないが、マルタはリナとマリオをきっかけに、映画の終わりではこれまでの自分の殻を少し出て行動するようになっている。 ただし、最後にはさまれるセラピストとのシーンのように、基本的にキャラクターが変わったわけではないことも示される。
3 ドイツ/イタリアのステレオタイプでわかりやすくなっている。
これは良し悪しあるだとうが、マルタはドイツの、マリオはイタリアのイメージを地でいく。マルタは勤勉実直、規則重視、時間厳守、マリオは楽しみを尊び、気持ちを大事にい、時間にはルーズである。ステレオタイプ的とも言えるが、イタリアを強調したのは映画的には成功していると思う。
イタリア系ドイツ人に聞いた話だが、ドイツとイタリアの食文化の違いには、食事習慣の違いが大きく影響していて、イタリアは皆で食事の時間をもつことをかなり重視するという。この映画でのマリオが重視するのも実際そこであり、この映画では人と分かち合うことを重視する「イタリア的」価値観を取り入れようとする姿勢があると思う。
4 「家族」を決めるのは何かという問いかけがある
「家族」のあり方についても、「べき論」(例えば血のつながった親が云々)にこだわらず、自分たちの求める安心の場を自分たちで作っていいというメッセージになっていて、これは今見ても古びていない。時間や喜びの共有を重視する、上記の「イタリア的」なものの導入とも整合する。
主演以外の俳優について
階下の隣人役でデンマークの俳優ウルリク・トムセンが出ています。
トムセンはドイツ映画にいい感じで出ています。
本ブログでは『23年の沈黙』について書いていますが、これで主演しています。
リメイクについて
2007年、アメリカ映画。スコット・ヒックス監督、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ、アーロン・エッカート主演。104分。
基本的設定はだいたい同じ
基本的に、オリジナルと同じ設定で、ケイト(マルタ)、ニック(マリオ)、ゾーイ(リナ)が仲良くなるところまでの展開もだいたい一緒である。演出は微妙に異なり、大きく違うのは食事を食べる・食べないによる人間関係の暗示がない。また主人公の「奇人」的なところはマイルドにされているのと、セラピストが彼女の独身性などについてやや説明的な補足を付け加えたりする。元来演技で示すべきところが、セラピストのシーンによって説明されたりするところは、わかりやすいといえばわかりやすいが、映画としての価値は下がっている。
大きく違う点 姪の役割:キューピッド
大きく違う点は、ゾーイの扱いで、生前の彼女の母の意思で、ケイトのところにいるのが当然という設定になっている。それゆえに、ケイトとゾーイの葛藤は、うまくやれるかやれないか、時間を割くか割かないかといった量的問題になっており、主人公が自分の殻から出るようなきっかけにはなっていない。相手役ニックとの間を結んだキューピッド的存在になってしまっている。
相手役がやや若い
主人公の相手役のニックにその分時間が取られている。ニックは主人公ケイトより少し若くほどほどにイケメン。キャラはオペラかぶれで、登場はやや大げさ。最後に結ばれるシーンはわりと洒落がきいている。彼との関係も性格的な対立がドイツ版よりも弱く、主人公の変化の観点は弱くなっている。
あとは音楽がけっこう違います。おそらく監督の趣味でフィリップ・グラスが流れる。オリジナルはムーディーなジャズ・ピアノが基調。
個人的お勧めはドイツ版です。
どちらも現在U-Nextで見放題。