メナーデのドイツ映画八十八ケ所巡礼

メナーデとは酒と狂乱の神ディオニュソスを崇める巫女のことです。本ブログではドイツ映画を中心に一人のメナーデ(男ですが)が映画について語ります。独断に満ちていますが、基本冷静です(たまにメナーデらしく狂乱)。まずは88本を目指していきます。最近は止まっていましたが、気が向いたときに書いております。

無垢なナチス少女が汚れた世界へ向ける陰鬱なまなざし 『さよならアドルフ』 原題 Lore

『さよならアドルフ』

2012年、オーストラリア、ドイツ映画、原題 „Lore“(『ローレ』(主人公の名前))

ケイト・ショートランド監督(オーストラリア人)、サスキア・ローゼンタール主演 

 

さよなら、アドルフ [DVD]

さよなら、アドルフ [DVD]

 

 

イギリス人作家レイチェル・シーファー(オーストラリア人、ドイツ人の間に生まれた)の小説集『暗闇の中で』の一編「ローレ」を、オーストラリアの監督ケイト・ショートランドが映画化。アマゾンプライムビデオで視聴可能。

 

あらすじ(中盤まで)

第二次大戦末期ドイツ敗戦直前から映画ははじまる。主人公ローレの父はナチス将官で、脱出の準備をしている。最初の逃亡先で父が捕まり、母も出頭しいなくなる。残されたローレは、妹と双子の弟、小さな赤ん坊を連れて、祖母のいるハンブルクへ向かう・・・

 

どんな話か

話の細部には触れずにどんな話か一言でいうと、何のためらいもなく「ハイル・ヒトラー」で挨拶していたナチスの少女が、両親の罪、ナチスの罪、および人間の罪を知る中で、ナチスおよび自分の「無垢さ」と決別する話である。

 

邦題では、一度もでてこない「アドルフ」の名があがっていて、最終的にはアドルフ・ヒトラーのアドルフだとわかるが、これは完全にミスリーディングなタイトル。

父が「断種法」に関わっていたナチス将官であったという背景、敗戦と同時にこれまでのナチス世界がくつがえったというナチス的モティーフはもちろん重要だが、中心は少女が「無垢さ」に別れを告げるまでの変化にある。別にナチスを背景にしなくても話としては成立させられる。

 

その意味ではタイトルをつけた人間の見識とセンスを疑わざるをえない。『ローレ』ではなんだかわからないから・・・というありがたい配慮なんだろうが、観客をなめている。「アドルフ」を期待したら裏切られるのでご注意を。

f:id:callmts:20200214193916j:plain

ドイツ語版ポスター

 

あまり好まれていない映画

アマゾンなどでの評価は総じて低い。とりあえず好まれていない。上で書いたようなミスリードのためのがっかりもあるが、根本的には作品のトーンにあると思う。端的にいうと嫌なシーンばっかりなのである。さしあたり前半では次の2点が目立つ。

 

1 人間(大人)の嫌な部分や不快な感情を、ベタに嫌な感じに演出しつづける手法

2 食をはじめとした生の喜びが描かれるシーンがほとんどない。

 

 

好まれない理由1 不快さを不快に描き続ける

 

映画は、父が家に帰ってきて脱出の準備を始めるところから始まるが、このとき父と母がうまくいっていないこと、父があまりいい父ではないことがよくわかるように描かれている。裸の母が鏡に映る自分をみて、おそらく衰えも実感しつつ、脱出せねばならない成り行きを呪っているだろうシーンなど的確な見せ方だといえる。だが、描かれるのが嫌なこと不快なことばかりであるため、観客は滅入ってくる。嫌な人を嫌な感じに描き、不和と険悪さをひたすら不穏に描き続ける。具体的には以下のような演出。

・父親や母親の荒廃をタバコで表す。

・状況の逼迫、父親の無情さを、脱出前の飼犬の殺害で表す。

・父と母の疎隔を父の下手くそな愛撫、母の嫌悪と侮蔑、それに対する平手打ちで表す。

・イライラの表現として、書類、薪を落とす。

 

紋切り型の嫌な感じだけが続くので、端的に楽しめなくなってくる。

f:id:callmts:20200214203820j:plain

ローレの母。ヒトラーの信奉者。

 

好まれない理由2 生の喜びが皆無

そうこうするうちにドイツは敗け、父は捕まる。母親はヒトラーが死んだニュースを聞いて絶望し、捕まる前に出頭しようと姿を消す。母がいなくなってからの子供たちだけのシーンで、『蛍の墓』か『誰も知らない』のような子供だけのユートピアにならないかと期待していると、そうはならない。ナチスの子供として邪険にされながら、宝石などと引き換えになんとか食いつなぐシーンが続く。

つらいのが続くのは、まあいいとして、例えば亀を見つけたシーンで小躍りしてスープでも作ってもよさそうなものだが、飢えているにもかかわらず、食べ物をがっつくシーン、食べ物にありついた興奮などが全くといっていいほど描かれない。ローレは美しいが、生とは隔絶した感じがつねにある。水辺でのシーンでは妙に美しい。冒頭のシーンと呼応するが、汚れを清める水が彼女のモティーフである。

大雑把な話になって恐縮だが、キリスト教、それもプロテスタント的な生および性への嫌悪に通じる世界観がおそらく基底にある。

 

 

f:id:callmts:20200214205108j:plain

水辺のシーン。生気はない美しさ。

 

一言で言えば華やぎのない陰鬱な世界なのである。美と性は死の影をおび、忌避される。

 

ローレの「無垢な世界」の喪失

このあたりで、ローレたちがこれまで無邪気に信じられていた「ハイル!」な世界への懐疑が、彼女に浸透する。それと同時に、無垢ではない性と、それにからみついた死を目にする。

父と母の失敗に終わる性行為を見たときの冷ややかなローレがすでに描かれていたが、ローレにとって「性」は汚れたものとしてあった。その汚い性がさらには死と結びつく。

食料を探しに入った荒らされた家で、ローレは、強姦されて殺された屍体にアリがたかっているのをみてしまう。その家に寝ていたユダヤ人トーマスの性的な視線に嫌悪を覚えながらも、ローレたちは彼に助けられてハンブルクへ向かう。

彼が性交する場面も見てしまったこともあって、ローレにも性への関心がめざめたのか、トーマスの手を自らの下半身へと導くが、我に返って手を払いのける。

ローレは、両親の庇護のもと無垢でいられた世界からだいぶ遠くに来てしまった。そんな中無垢な世界が崩壊する決定的な事件が起こる。

船で川を渡らなければならなくなり、船所有者の中年の男にローレは交渉するが、壊れかかった時計では男は首をふらない。男の性的な視線に応えるように上着のボタンをはずそうというところで、後ろから来たトーマスに目をやる。男のセリフ「お前死人の匂いがするぞ」が象徴的すぎる。これを合図にトーマスは男を撲殺する。

f:id:callmts:20200214213846j:plain

中年男に身を預けるローレ。

嫌悪の目で見ていた汚れた世界に、今や自分も足を踏み入れている。このことに気づいたローレは、パニックに陥り、赤ん坊と入水しようとする。世界を呪うかのような目をしたまま、汚れた手のユダヤ人を頼りに祖母のもとへ向かう。

 

「無垢」の裏返しとしての「罪」

見ていて不快になるのが、「無垢」を良しとしたローレが踏み入れる汚れた世界があまりにも陰鬱に描かれ、残酷さの中にある晴れやかさのようなものをローレが全く看取しないところである。

それまで無垢に信じられていた世界を崩壊させるために、飼い犬を銃で殺すくらいはまだいいが、屍体に集るアリをアップで映して強調したり、目玉のくり抜かれた屍体から時計を奪い取らせたりする必要がどれほどあるだろうか? これらは即物的に描かれるのではなく、いかにも不気味に描かれる。汚れない世界から外へ踏み出すと、世界があまりにも陰鬱に汚れている。

トーマスの撲殺は残酷そのものではあるが、生きるためにすることでもある。結局はトーマスにすがらないと立ち行かないローレが、この時点で「罪」に関してギャアギャア言っているのは、ちょっと付き合いきれない感じがしてくる。

このあたりは15歳くらいの少女から見た視点を忠実に描いているということなのかもしれないが、 思ったのとは違って世界が無垢ではなかったからといって、その世界を汚い罪深いもののように捉えるのは、世界に対して不当なのではないかと思う。

 

にせユダヤ人トーマス

トーマスは実はユダヤ人ではなかったということが後半明らかになる。これについては十分に説明はされないが、彼はおそらく窃盗か何かで捕まって収容所に入れられていたドイツ人で、そこでどさくさにまぎれてユダヤ人から身分証を盗んで(場合によっては殺しているかもしれない)、ユダヤ人として敗戦後を過ごしている。

この設定はけっこう面白いが、この映画はあくまでローレの映画になっていて、トーマスは、無垢でない世界で生き延びるために悪いこともする人間として、気づきのきっかけを与える役回りである。ローレにとっては最後まで都合がいいといえば都合がよくて、なぜか助けてはくれる、ローレには最後まで(性的な)乱暴もしない。あくまでローレが汚い世界で生きて行くための成長の伴侶としている人物である。

f:id:callmts:20200214213513j:plain

映画より、ローレとトーマス。

最後のシーンのカタルシス

個人的には、最後のシーンはよかったと思う。祖母の家にたどり着いたローレたちだが。食卓で無作法をした弟が祖母に叱られ、しつけの悪さを罵られたときに、糞食らえとばかりにパンにかじりつき、ミルクをテーブルにぶちまけて犬のように飲むシーンである。これは、ナチスとの決別というよりも、かつて無垢に信じていた世界に中指を突き立てる行為であり、映画唯一すがすがしい。

 

アマゾンプライムビデオで見れますので、もし暇と興味があれば。

 

愛のむきだし』の真逆の世界感

ローレが生と性へ向ける陰鬱なまなざしを見ながら思い出したのは、この陰鬱さとは対照的な園子温監督作『愛のむきだし』の主人公ユウである。

愛のむきだし』冒頭1時間の構図はこうである。主人公ユウは、幼くして母を亡くすが、母とマリアを重ねて胸にいだきつつ、母の死をきっかけに神父になった父と暮らしている。父は変な女にひっかかり、振り回された挙句に捨てられ、目覚める。これまでとは違って「罪」に目を向けるようになった父は、ユウに「罪」を強要する。人間は罪深い存在であり、神を前にしてその意にかなうように完璧に振る舞うことなどできない存在だ、お前もその人間の一人として何か悪いことをしているはずだ、それを省みて懺悔せよ・・・父はそのように迫ってくる。だが、ユウは根本的にそのような罪による世界把握に汚染されておらず、自らの罪を見出すことはできず、父の意に適うように自分から罪をつくる・・・。しかし、世界を罪と義、清浄と不浄でそもそも把握していないユウは陰鬱さに汚染されることはない。

キリスト教的な罪把握のパロディになっているので、未見の方は是非ごらんを。 

愛のむきだし [DVD]

愛のむきだし [DVD]