デンマーク・ドイツ映画『ヒトラーの忘れもの』−−ナチス・ドイツの残した地雷を処理する少年兵たち 「人道的」というよりも「外交的」な名作
『ヒトラーの忘れもの』
2015年、デンマーク・ドイツ映画 ドイツ語タイトル „Unter dem Sand-- Das Versprechen der Freiheit“ (砂の下−−自由の約束)
マーティン・ツァントヴィレト監督、ローランド・メラー主演 (デンマークの監督、俳優)
邦題の「忘れもの」はナチス・ドイツが連合軍上陸に備えてデンマークの海岸に設置した莫大な数の地雷のこと。
背景がわからないとやや理解が難しいところがあるかもしれないが、どの観客にも強い印象を残し、考えさせる良作。
映画のみどころ
この映画の意義は、まずはこの地雷処理の緊張感を画面を通してとはいえ伝える点にあると言える。地雷処理がどんなものなのか、この映画を見るまで知らなかったが、少し手がすべると爆死するかもしれないという緊張感は十二分に伝わる。人間の感情の「地雷」を踏むかもしれないというだけでもビクビクしてしまうが、それどころの騒ぎではない。
ドイツとデンマークは隣国で貿易が盛んであり、ナチス時代もデンマークとドイツは関係が悪くなかった。第二次大戦際中は、ドイツがノルウェーへと侵攻するために、デンマークに進軍しているが、デンマークの独立は保たれていた。
敗戦までドイツ軍が進駐していたが、映画で問題になるのは、その際にドイツ軍が設置した莫大な地雷である。連合国の上陸が懸念されるようになると、対人地雷、対戦車地雷を数多く設置し、それを残したまま、戦争が終わる。
映画のポイントーー「復讐行為」を子供に向けていいのか?
主人公はデンマーク軍のラスムスン軍曹と、彼の指揮下に地雷除去にあたったナチス・ドイツの少年兵たち(当初14名)。
ラスムスンが、激しい感情もむきだしにドイツ兵にきつくあたるシーンから映画ははじまる。デンマーク軍では、これまでの我慢もあって、ナチスが残した負の遺産はナチスに処理させるのが当然とばかりに彼らに地雷処理を進めさせた。
ここがまず一つ目のポイントになるが、これは敵国捕虜の強制労働であって、元来国際条約違反である。感情的にはデンマークの復讐行為として理解できるものの、ナチスの非道に比すならきわめて小さいとはいえ、褒められることではない。とはいえ、多くの国がやったことであり、それだけなら「まあわかる」。問題は、地雷処理を少年兵にまでやらせた点である。
ラスムスン軍曹は少年兵たちに当初厳しくあたっていたが、接するうちに次第に情もわいていく。わずかなセリフにおいてではあるが、少年兵たちに地雷処理をさせることへの罪悪感をはっきりと示している。
ナチス・ドイツが少年兵を動員していることがそもそも悪いとはいえ、彼らはまだ母の名を叫ぶような子供であり、戦争へと向かわせたのは彼ら少年兵ではない。ナチスだからといって彼らに責任を求めるのはおかしいという感情をラスムスン軍曹はみせる。
ラスムスンは上記の国際条約違反だったり、例えば「人権」に言及することはないが、少年兵に地雷処理をさせるのは、間違っていると感じており、次第に少年兵たちに情をもって接するようになり、親しさを増していく。
以下ネタバレ度が増していきます。
ラスムスンの愛犬の爆死
そんな中、地雷を除去したはずの区域に踏み入ったラスムスン軍曹の愛犬が処理し忘れた地雷によって爆死する。ラスムスンは沈黙する。次に現れたラスムスンは当初の非情な態度をもって現れ、未処理地雷がないか、少年兵たちに歩いて確認させる。このときのラスムスンが何を考えていたのかは必ずしも明らかでないが、さしあたり三つ考えられる。
1 愛犬が死んだことへの怒りが少なからずある。
2 職務上の責務:一つ見落としもなく正確に地雷を除去しなければ、デンマーク人に被害が及ぶ(実際、人間ではないが犬がすでに被害にあっている)。冷徹ではあるが少年兵とはいえドイツ兵に命がけでも精確な作業を課さなければいけない。
3 少年兵のたるみを正す:注意を欠いて作業していたら、彼らも死にかねない。彼らに処理させるのが責務である以上、彼らのためにもきっちり仕事をさせなければならない。
犬の死によってナチスへの復讐感情もあらたに甦りつつ、自らの責務が、少年兵たちにきっちりと地雷の除去をさせることだ、と再確認したラスムスンは、しかし、同時に少年兵たちのことを考えてもいたと思われる。地雷処理という労働を遂行することによってしか自由になれない少年兵たちにとっても、正確な地雷除去を貫徹することは不可欠である。不正確であれば彼ら自身も死ぬのだ。かくして、再びラスムスンは冷徹に地雷処理を課していく。
自由の約束
冷徹に作業を進めさせるラスムスンだが、決めた区域の地雷除去が終われば、彼らも自由になれるということを信じ、少年兵たちにもそれを約束していた。
しかし、作業もようやく終わったかというところで、悲劇が起こる。おそらくは不良品のゆえに、信管を抜いたにもかかわらず爆発した地雷によって、多くの少年兵が爆死する。そして、残った4人の少年兵も熟練の地雷除去作業員として、新たな任地へと送るようにラスムスンに命令が下る。
ラスムスンは、いったんは少年兵を作業に送り出す。だが彼は作業場へと現れ4人をドイツへと脱走させ、映画は終わる。
デンマークの「悪」
戦後しばらくは「ナチス・ドイツがすべて悪かった」ということで、連合国側が行った行為は不問にふされていた。例えばドイツの東部、ドイツが侵攻した東欧地域に住んでいたドイツ住民は1200万人ほどが、そこから追放されその際の多くの死者(推計200万人)が出ている。戦争に伴う被害は、ナチス・ドイツにも当然あったわけである。そして本作で描かれるように、勝者や中立の側でも非道いことをしていたことはあったわけである。
本作で描かれるのは、ナチスに比すならきわめて小さいながらもやはり「悪」の行為である。この映画をとったことでデンマークの監督はそれが悪かったとはっきり認めている。しかし、「少年兵に非道いことをして悪かった」「こんなことをもたらす戦争は二度としてはいけない」ということに映画の主眼はない。ましてや「デンマークも大なり小なり悪いことをしていて、国家あるいは人間は救いがない」みたいなことを主張する映画では全くない。
きわめて「外交的」な映画
ドイツ側も協力したこの映画は、ラスムスンのように復讐に燃えながらも自問し、少年たちに冷徹にあたりながらも情を交わし、情を交わしながらも非情に接し、最後には「約束」を守った人を主役に据えている。ラスムスンは、自らの感情、デンマークの軍曹としての責務、人間としての共感の三つに照らして、自らの決断の線を引いた。少年兵の未来のために、彼は軍規違反を犯している。すべてを満足させる決定がない以上、何を重視するかをギリギリの線でえらばなくてはならず、彼は少年たちとの約束と彼らの未来を優先した。
非情に接しながらも、自由の約束をした以上はそれを守ろうとするラスムスンの微妙な立場は、過去のわだかまりはあるにせよ、未来を担う人間については、これまでのことは一定の約束を踏まえた上で、お互い公正に接していくべきだというメッセージになっているように思われる。これは筆者の個人的信条も入れた解釈だが、あながち間違っていないと思う。
これまでのことはある程度のところで線引きをして、未来志向でお互い進もうというのは外交の基本でもある。外交の基本は、どちらかの論理を純粋に貫き通すことでもなく、また一つのルールを杓子定規に適用することでもない。ナチスなんだから何をさせても文句は言えないという復讐感情の発露は外交的でない。人権侵害で国際条約違反だから、捕虜の強制労働をしたデンマークは悪、ましてや少年兵に当たらせたのだから、ナチス同様絶対に悪であるというのも外交的でない。「この先」を大事にするため、お互いがわだかまりや利害も抱えつつ、それぞれの信義を果たそうと言い合うのが外交である。
ラスムスン軍曹のケジメの線引きは、この意味で外交に通ずる。このようなギリギリの線引きを描くことで、デンマークとドイツで合作したこの映画はお互いの大なり小なりの非を認めながら、過ちを繰り返さず、未来を築いていこうという意思を示している。地味ではあるが名作である。