メナーデのドイツ映画八十八ケ所巡礼

メナーデとは酒と狂乱の神ディオニュソスを崇める巫女のことです。本ブログではドイツ映画を中心に一人のメナーデ(男ですが)が映画について語ります。独断に満ちていますが、基本冷静です(たまにメナーデらしく狂乱)。まずは88本を目指していきます。最近は止まっていましたが、気が向いたときに書いております。

1大江健三郎『万延元年のフットボール』と村上春樹『1973年のピンボール』 2『燃え上がる緑の木』

1 大江健三郎村上春樹

万延元年のフットボール』はノーベル賞作家大江健三郎の名作。

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

 

 

1973年のピンボール』はノーベル賞受賞が期待されながらも未だ取れない村上春樹の初期作。

 

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 

 

どちらも好きである。どちらもリアルタイムではなく後追いで読んでいる。

村上春樹に関しては、「鼠」が出てくる初期作が好きで、『ねじまき鳥』以降は読み通したことがほとんどない。大江健三郎はそれほどたくさん読んでいないが、『万延元年〜』はじめ読んだものには引き込まれた。『燃え上がる緑の木』三部作や『宙返り』、セヴンティーンなどについてはまた後段で書きたい。

 

文芸評論家・思想家の柄谷行人の受け売りだが、村上春樹の『ピンボール』は『フットボール』のパロディである。『フットボール』に出てくる「本当のことを言おうか」を村上春樹が反復しているのをどこかでみたが、そのようなセリフの反復も含めて、村上春樹はかなり大江健三郎を意識していた。

柄谷の指摘で重要なのは、大江には「歴史」があるのに対して村上春樹は「歴史」を欠いている、ということである。あるいは村上春樹は歴史をアイロニーの対象として空無化しているとも言える。例えば世間の人々が意味を見出す安保の年(「我らの年」)は、意味ありげで意味がない1973年同様、一つの記号でしかないとするアイロニー。『ピンボール』の「1973年」は、意味ありげながら結局意味がないのに対して、『フットボール』の「万延元年(1860)」は安保闘争の1960年とはっきり共振している。

終焉をめぐって (講談社学術文庫)

終焉をめぐって (講談社学術文庫)

 

 

羊をめぐる冒険』だったと思うが、村上春樹は、例えば戦中の右翼の親分にまつわる壮大な話を展開させるのかと思うと、冗談なのかなんなのかわからない夢のような「羊」の話とそれを接合し、何か熱いものを期待する読者はスカしをくらう。大江健三郎であれば、例えば新興宗教の教祖について書き出せば、多少グダグダになりながらも最後までその顛末を書き切ってしまう。アイロニーがないので洒落た感じはないが、頭に湧いたアイデアやヴィジョンを書ききる力では村上春樹大江健三郎に敵わない。

 

個人的な趣味でいうと、村上春樹は話を壮大にし出したところで興味がなくなった。ねじまき鳥やIQ84など、二つの世界の同時並行など壮大気ではあるが、どちらも途中で興味がなくなって読むのをやめた。もっと暇だったら読んだのかもしれないので断定は避けるが、真剣に受け取るような物語が展開されているとは感じられないのである。

 

推測だが、村上春樹大江健三郎に憧れつつ、大江のように愚直に物語を紡ぐことの反復が出来ないでいる。それゆえ大江テイスト、パロディーを入れながら、村上作品は違った方向に展開していく。

 

ノルウェイの森』で主人公が穴に入る場面があるが(映画でも穴に入っていた!)、これも大江のパロディになっている。『万延元年のフットボール』は、冒頭で穴に入っていてビックリするが、障害児の誕生と狂死した友人の話と絡めて語られてギラギラしていて、下世話な興味もそそる。

 

万延元年のフットボール』レポート

『万延元年』については昔小レポートを書いたので、コピーしてみる。

 

 主人公で語り手の蜜三郎は、障碍児の誕生、友人の奇妙な自死といった出来事に見舞われ、アルコール依存症になりかかった妻とともに、困惑の中にいる。困惑を表現するように蜜三郎は冒頭で庭の穴に籠っている。物語を牽引するのは、穴に籠る語り手「蜜」ではなく、むしろその弟の「鷹四」である。1960年の安保闘争に参加して挫折を味わった鷹四は、「蜜」も誘って故郷の四国の村へと戻っていく。この村で万延元年(1860年)に起こった一揆を反復するようにして鷹四はフットボールチームを組織し、チームの若者を使って近隣を支配するスーパーマーケットの強奪を行う。妻を含めた皆が鷹四の暴力的な運動に引き込まれていく様を蜜は目の当たりにする。

 鷹四の反復は両義的である。一揆は蜜と鷹四の先祖に関わるものだった。一揆の先導者と鎮圧者がともに彼らの先祖であり、出来事は半ば「神話」化されて伝わっている(詳細な事実は知られずに神話のように語り継がれている)。鷹四は一揆にまつわる「神話」を自ら「生き直す」ことで、挫折からの再生をはかると同時に、失敗した一揆を反復することで自身の破壊をはかっているようにも見える。彼が「本当は」何をしたいのか、それはおそらく彼自身掴み得ていないが、彼の熱は、村の若者たちの当て所ないエネルギーをも取り込みながら大きな動きを生み出す。

 この鷹四のエネルギーと「本当のこと」をめぐる謎解きの要素が読者を惹きつける力をこの作品に与えている。謎がかつての一揆と祖先にも同時に重ね合わされることで、物語の枠組みが深遠なものとなり、読者は眩惑させられ、酩酊し、興奮を覚える。中盤で明かされる「本当のこと」――鷹四と妹の近親相姦とそれを苦にした妹の自殺――は、しかし、物語すべてを説明するようなカギでは有り得ず、鷹四を突き動かした一要素であるにとどまる。鷹四の死と運動の終わりを導く事故にしても、物語全体からすると偶発的なものと感じられr幾分読者を落胆させる。だが、物語への熱狂を妨げるこれらのつまづきは、鷹四自身も安保やフットボールチーム暴動においては、一要素であるにすぎないことを示す役割を果たしている。歴史が一人の人物によって作られるものではないのと同じく、この物語は鷹四のキャラクターに牽引されながらも、そこに還元されはしないのである。

 大江は、鷹四というキャラクターを配することで、個人的熱狂と集団的熱狂の共振の一つの原型を示している。個の熱狂や懊悩なしには、集団の熱狂はない。集団の共振なしには、個の熱狂は無である。例えば「穴」にこもっている蜜の懊悩や「期待」は無に等しい。こうした個と集団の熱狂の交感については、万延元年の一揆安保闘争の、そして鷹四のスーパーマーケット強奪を重ね合わせることで、歴史的パースペクティヴにおいて捉え返されることになっている。この「歴史」の要素は、何らかの熱狂を抱えた読者、あるいはそうした運動に触れた読者を引き込む。そのことによって『万延元年のフットボール』は、絵空事の次元を突き破り、それ自体一つの歴史的形成物として、迫ってくるのである。観念が具現化したような、あるいは、具体物を観念の触手でもってまさぐったような筆致も、燃えきらない、あるいは鈍く光る熱狂を盛り上げる。傑作といって間違いない。

 この作品の最後で大江は、反復の中での再生というモティーフを提示している。蜜は、かつての一揆で失敗し潜伏した指導者が、熱狂の挫折を冷静に反省し、二度目の機会にはその知恵を利用して無血的一揆を成功させていたことを知る。暴力の熱狂に塗りつぶされない、明晰な意志の存在を嗅ぎ付けた蜜は、そこに希望を見いだしている。彼は、子どもの障害と向き合い、再出発を果たすことを新たに決意していく。地獄巡りのような懊悩と苦悶、残酷と悲惨も、再生のための契機として理解され、大きな意味では肯定されているように感じられる。良識的なユマニストとしての知識人大江健三郎の言説の表面にはあらわれてこない暴力と悪に読者は直面する。暗い情念のうねりとの向き合いが、ものすごい筆致で描かれているのである。

 

・・・

 

一気に書いたレポートであり、上で挙げた柄谷行人の見解にかなり依拠しているような記憶があるが(個と集団の話は確か柄谷由来)、読み返してみてもそれなりの強度を持ったまとめだなと感心した(笑)。

 

「本当のこと」というフレーズも村上春樹はどこかで使っていた。万延元年では意外と秘密めかさずに「本当のこと」が語られるが、村上春樹の場合は「本当のことを話そうか」というフレーズが踊る(のみ)。村上の方が洒落ているが、洒落ているだけでは「真実」は開かれない。『万延元年のフットボール』をはじめ『燃え上がる緑の木』などでも、大江作品では結末にひとまずの真実が吐露されて終わるような印象がある。煙に巻くのではなく、ひとまず描き切ろうという大江の姿勢に好感を持つ。

 

両者で似ている点としては、性描写である。ちょいちょいフェラチオ場面が出てきて印象に残る。村上春樹の方は「やれやれ」という感じも強いが、護憲派の岩波知識人大江健三郎が行う性描写の独特な感じは非常に興味深い。特に次にあげる『燃え上がる緑の木』での、インテリ宗教家たちのスピリチュアルな倫理性と、両性具有まで含めた性的描写の並存が異様な感じがして興味深い。

 

2 大江健三郎 『燃え上がる緑の木』三部作、『宙返り』

 だいぶ前に読んだので詳細は忘れたが、漠たる印象はいまだに強く残っている大江健三郎の小説。

大江健三郎全小説 第12巻 (大江健三郎 全小説)

大江健三郎全小説 第12巻 (大江健三郎 全小説)

 

 

万延元年のフットボール』同様に、四国の村が舞台になる。

新興宗教「新しい緑の森」の創始者になった男とその周辺で起こる出来事が壮大に描かれており、その中で『万延元年』の人物たちについても言及される。大江健三郎の異常なところは、自らのかつての作品を、作品内で「伝説」化しつつ新たな作品世界を作り上げていく妄想的とも言える力である。個人的には『万延元年』の後の1970〜90年代の作品はほとんど読んでいなかったので途中の作品への自己言及はほとんど理解できなかったが、『燃え上がる緑の木』では、とにかく大江の中で「四国の村」サーガ(伝説)が出来上がっていく過程を小説を読みながら実感できる。

 

以下執筆中。

オウム真理教地下鉄サリン事件を起こす直前の作品だったと記憶している。

日本の閉塞感と、新しい村への希求が大江の中で結構切実なものだったのかと思う。

 

柄谷行人が2000年前後に主導したNAM(New Associationsit Movement)は、黒歴史のようになって、それ以後は柄谷は論壇で華々しく輝くことはなくなってしまった(論壇自体が死んだとも言えるが)。このNAMの運動についても、後から見ると柄谷の思考の文脈を除くと唐突そのものに見えるが、大江健三郎の試みなどと合わせると、意外とぶっ飛んだ人々の間では共振していたのかもしれない。

 

この点で言うと、「流行」に敏感な村上龍が少し遅れて『希望の国エクソダス』を書いているのが示唆的である。そしてこの「流行」に関して、一番あっさりと撤退できてダメージが少なかったのが村上龍なのも示唆的。

 

大江と柄谷は意外とお互い認め合っている。二人の対談ではアメリカのインテリの話などが多かったと記憶しているが、NAM的なものについてじっくりぶっちゃけて語り合うのもみてみたいものである。 

 

 

 

最近の「コロナ禍」をめぐる政権と官僚機構のポンコツっぷり、危機における市場の脆弱性、それでも回る資本と資本が抱えるとてつもなく危ない火種について思うにつけ、大江、柄谷的な代替案は、理念のみならず、現生利益的観点からみても遠からず必要になってくるかもしれない(彼らの頭にあったような形では実現しないにせよ)。

 

「正しいヴィジョン」に関して語るのはやはり難しい。とはいえヴィジョンを理論的に示そうとした人、あるいは物語で構築しようとした人の営為には敬意を払いたい。

 

 

追記

読んでいないが話題になった『人新世の資本論』は、柄谷図式を下敷きにしているとの噂を聞いた。斎藤氏は、videonewsに出ているのを見たが真面目な好人物という印象。